魂が抜けてしまったような顔で、おそるおそる、エミルは持ち上げた自分の掌を見た。その手は細かく震え、一瞬で大量の血を失ってしまったように冷え切っていた。
路地の石畳に両膝を落としたままのエミルの側に、硬いヒールの音を控えめに立てながら、レラがなんとも言えない顔をしたまま近づいていった。
「……あ……」
エミルは自分の掌を凝視したまま、誰にともなくひきつった声を落とした。
「ぼ、僕は……まさか、人を……魔法で……」
巨大な火炎が現われ、それが男を飲み込んだ瞬間に、逆上していたエミルは冷水を浴びたように我に返った。
自分がいったい何をやったのか、それを認めることがあまりに恐ろしくて、信じられない思いのまま、エミルは震える手で自分の頭を抱えた。
と。
「なぁにが、まさか、だよ。てめーがやったんだろ、この凶悪暴走野郎」
呆れ返ったカーレルの声が背後から響いた。エミルが何らかのリアクションを返す間もなく、いきなりその背中にケリが入る。
だあんっ、と無防備に前方に倒れたエミルは、何がなんだか分からず混乱しながらも、とにかく振り返った。
「カ、カーレルさん!?」
「見境なく街中で魔法を使うなつったろーが。しかもあんなサラマンダーなんか喚びやがって」
エミルの背後には、魔道士の男達を荷物同然に無造作に襟首を掴んで引きずり、あるいは肩に担ぎ上げたカーレルが立っていた。
気絶した魔道士達が三人、ぽいっと路上に投げ出される。隊長も、エミルが殺してしまったと思っていた男も、そこにいた。
「この俺様が、いくら油断してたからってそのへんの三下魔道士なんざにやられるわけねーだろが。あの時避けなかったのは、俺が避けたらとばっちりでこいつが死んでたからだよ」
と、カーレルは尊大な態度で、気絶したきりの隊長の頭をつま先で小突く。カーレルの姿はおろか、隊長にも、焦げ跡ひとつ傷痕ひとつなかった。
世の中には、次元を歪めて空間から空間に瞬間に飛越する、いわゆる瞬間移動を可能にする魔法も存在していることを、エミルは思い出した。ただしそれはとても高度な、使える者などそうそういない《高位魔法》と呼ばれる種類の魔法だったはずだ。
だが、大陸屈指の魔道士とまでいわれる《魔剣グラム》であれば、それも造作もないことなのかもしれない。
レラはカーレルを見て若干瞳を輝かせたようだったが、口に出しては何も言わなかった。成り行きを見守るように、黙って一歩下がる。
「カーレルさん……」
様々な意味で安堵しながらも、エミルは自分がしでかしてしまったことへの動揺を隠し切れず、立ち上がることも忘れて、カーレルを見上げていた。
カーレルはそれが癖であるように腕組みしながら、無感動とも思える目を、黙ってそんなエミルにそそいでいた。
「ご、ご主人~!」
「よかったずら、無事だったずら~」
その足元に、どこかに転がっていったきりだった地霊の兄弟が、ようやく戻ってきた。足元にじゃれつくそれに一瞥をくれるでもなく、カーレルは不意に口を開いた。
「やっぱりおまえ、召喚士だったんだな」
「……え?」
てっきり蹴られるか怒鳴られるかするのではと思っていたエミルは、予想に反するカーレルの対応にキョトンとなった。
「きのうおまえが街をぶっ壊したとき、あれも召喚魔法だったろ。術の使い手が意識を失っても魔法の効果が持続するのは、唯一、召喚魔法だけだからな。あの空気の弾丸の正体は、風属性の下級の小妖精だ」
召喚魔法。《魔道》が「異界の存在の純然たる力のみを引き出す」術だとすれば、それとは根本から異なる、文字通り「異界の存在を喚び出して直接その力を行使させる」ことによって発動される魔法。
カーレルはぼりぼり頭を掻きながら、呆れたように、いささかなげやりに言った。
「ったく、驚いたな……この俺でさえ、召喚術なんざロクに扱えねえってのに。中級眷属とはいえサラマンダーなんざ喚び出して立派に使役するとはね。召喚士ってのは、魔道士の中でも天然記念物並みに珍しいんだぞ。おい、おまえ、その自覚あるか?」
「あ、あの……」
エミルはますます混乱に拍車がかかり、なんだか曖昧に笑っているような顔になってしまった。
「僕、旅芸人の一座にいた頃は、しょっちゅう妖精とかいろいろ呼び出してましたけど……みんなも普通にそれ見て喜んでましたし。あの、これって、そんなに珍しいものだったんですか?」
言った途端、カーレルが「ほう……」と恐ろしく冷めた目をした。
「カーレル」
そこに声を投げ込んだのは、下がって様子を見ていたレラだった。
澄んだサファイア色の双眸が、真っ直ぐにカーレルを見つめていた。美しいが、やはり感情に乏しい顔だった。
「彼は反省しなければいけないけれど、薄々であれ察していたのなら、あなたにも今回の事態の責任はあるわ。監督責任、というものがあったはずよ。彼は自分の力のことも、よく分かっていなかった。彼よりはるかに大きな魔力と経験を持つ先達者として、あなたは彼をフォローするべきだったわ」
「……わぁってるよ」
むくれたように顔をそらして、カーレルは答える。彼にしては随分と押しが弱く見えるその様子に、エミルはびっくりして思わず目を丸くした。
そんなエミルの上に、レラが美しい瞳を移動させた。
「あなた」
「は、はいっ」
表情と同じく、あまり起伏を帯びない声音に不意に呼びかけられ、エミルは慌てて背筋を伸ばした。腰が抜けたようになってしまって、まだ立ち上がれないままだったが。
「強い力を持つ者は、強い心を持たねばならない。あなたは人としても魔道士としても未熟すぎます。魔道士ギルドに来て修行を望むのならば、歓迎します。よくよく考えて、道を選びなさい」
女性にしては少し低めの声で一気に言い、レラは長い栗色の髪をふわりと揺らして背中を返した。しゃらん、と、また錫杖の連環が鳴った。
「そこに、その者達は捨て置いてください。後ほどギルドの者達と引き取りに来ます」
「レラ、ちょい待て」
その細い背中を、カーレルが呼び止めた。
「ギルドで余計なコトするんじゃねーぞ?」
「余計なこと?」
立ち止まり、顔を少しだけ後ろに傾けたレラに、カーレルは重ねた。
「俺の抹殺だのなんだのって件で、むやみに騒いだりすんじゃねーぞってこと。一発で立場が悪くなっちまうぞ」
レラが真っ直ぐに、カーレルを振り返った。
「道義にもとることであれば、見過ごすことはできないわ」
「どーせギルドの三下連中が俺に手出しできるわけねーんだから。ほっとけっつの」
「そういう問題じゃない。それにこれは、あなたが云々じゃない。私の問題よ」
レラはぴしゃりと言い置き、今度こそ夜道の向こうに、ヒールの音を響かせながら遠ざかっていった。
ふう、とカーレルが嘆息した。
「ったく。相変わらずだな、あいつ」
「……あのう?」
「ほれ、俺らも帰るぞ。いつまでぐだぐだしてんだよ」
カーレルはさっさと自宅(宿屋)に向かって歩き出してゆく。
あたふたとエミルも立ち上がり、まだ若干笑っている膝によろめいて、自分でその膝をぺしんと叩いた。
「……すみませんでした」
倒れている魔道士達に、一言そう頭を下げ、カーレルを追ってゆく。謝ればすむというものでもなかったが、この場でエミルにできることといえば、ただそれしかなかった。
彼らが立ち去り、今さっきまでの騒々しさが嘘のように静まり返った夜道に、どこかの犬が上げた遠吠えが、どことなく間の抜けた響きをこだまさせていた。