猫の鈴 ~聖堂綺譚~

「わっかんねえ」
 あふれるように置かれた骨董品に半ば埋もれたような格好で、リンは呟いた。
 昼間だというのに薄暗い、あまり採光の良くない建物の中である。古くからの町屋を改築して営まれたその骨董品屋の中は、車の入り込めない小道に面しているせいで、とても静かだ。まるで時間の流れがここでは静止しているように。
 ところ狭しと並んだ様々な小道具、調度品、装飾品、用途の良く分からないとにかく古めかしいもの等々……それらが並ぶ薄暗い店内に、紫色の暖簾をふわりと揺らして、眩しい陽光と最近少しぬるみを増してきた初夏の風が入り込んだ。
 さして大きくも無い葛篭の上に無造作に腰掛けたまま、リンは自分の小さな膝頭に頬杖をつく。
「何がです?」
 店のやや奥まった位置から、穏やかな声が返った。一人の着物姿の男が、土間から板敷きの廊下に上がる、三和土たたきのところに腰を下ろしている。
 ほっそりした男の膝の上で、にゃー、とそこにいた毛玉が声を上げた。
「あんたのことだよ、あんた」
 リンは頬杖をついたまま、その男の姿を横目にする。
 着物姿の男の周囲には、膝の上ばかりでなく、無数の猫達がたむろっていた。どれも曲線的な身体をくつろがせ、毛づくろいしたり眠たそうに丸くなったりしている。白いのや灰色っぽいの、まだらっぽいのや茶色やキジトラまで。共通していることは、すべて雑種である、ということだ。
「あんたは猫使いか。なんでそんなにむやみに好かれてんだ」
 安心しきったように見える猫達の姿と、そこに座っている男の姿を見比べながら、リンは言う。男は膝の上にいる三毛猫──お世辞にも可愛いとはいえない顔をしている──の背中を、ゆったりと撫でてやっている。少しうつむいた拍子に、長い髪が肩の上からすべって落ちた。
「さあ。この子達に聞いてみてください」
「動物は本能的に、危険なものには敏感なはずなんだけどねえ」
「そうですね」
 リンはまだ幼い、瞳の大きな目元を嫌そうにしかめた。
「さらっと返してんじゃないよ」
「では、何と言ってほしいんですか?」
 柔和に整った面を、男は少しだけリンに向ける。その綺麗な目許は、からかうような笑みを含んでいた。
 むう、とリンは唇をとがらせる。
「あんた、キレイな顔してほんっと意地悪だよな」
 ふくれっつらで言う少年に、男はおかしそうに小さく笑った。
「少しくらい毒がある方が、人間らしくていいでしょう?」
「少し、ねえ」
 リンは呆れた口調で繰り返した。
 男は相変わらず、すっかり安心しきって丸まっている膝の上の三毛猫を撫でてやっている。


 この骨董品屋の名を、「聖堂ひじりどう」という。店主は、そこで猫に囲まれている男である。店主の名前は、リンも知らない。店主は、ただ店主、である。
 そしてリンは、この骨董品屋で売られている骨董品だ。
 この「聖堂」が、いつからここにあるのか、由来などもリンには分からない。ただこの骨董品屋が、ちょっとした「いわくつき」の品物ばかりを扱う、いささか奇異な店であることは分かっている。何しろここにいるリン自身、いちおう「いわくつき」のものであるから。
 リンの本体は、すぐそこに置かれている、猫の首輪──正確には、そこにつけられた銀の鈴である。
「鈴だからリン、とか。カケラも芸がねえ」
 小さな天鵞絨張りのクッションの上に置かれた自分の本体を、リンは葛篭の上から見下ろした。
「おや、そうですか?」
 いつも通りの穏やかな声で答えたのは、店主だ。ゆっくりと店内を見回りながら、並ぶ骨董品から、ひとつひとつ埃を払っている。
「まんますぎるだろ。もうちょい捻れよ」
「私は良い名だと思いますよ」
「あんたの好みは聞いてねー」
 店主はリンのそばまで来ると、そこに置かれていた猫の首輪をそっと取り上げた。首輪はよくあるベルト形状ではない。手織りの綾布をより合わせた、いかにも手作りといった風情の、なかなか可愛らしく手の込んだものだ。
 この首輪をここに展示するとき、天鵞絨張りのクッションを置いたのは店主。そして見栄えの良い首輪を鈴に通したのも店主だ。
「言霊とはよく言ったものでして。名前は、命を宿すのですよ」
 疵がつかないように丁寧に布で鈴を拭きながら、店主は言った。
「命、ねえ……」 
「そう呼ばれるとき、そしてそれを自分の名だと思ったとき、初めてその言葉はこの世で唯一の息吹を宿したものになるのです。言霊とは、決して馬鹿にできたものではありませんよ」
「馬鹿にはしてないよ」
 葛篭の上で細っこい脚をぶらぶらさせながら、リンは答えた。
「ただ、もーちょい凝った名前でも良かったんじゃない?って思うだけさ」


 言われなくても、自分がこの店できちんと大事にされていることは、リンにはよく分かっている。
 いつもお気に入りの葛篭の上に座っているリンの姿は、人間の目には見えない。時折店に現れるお客達を、リンは──リンだけではなく、この店中の骨董品達すべてが、なのだが──いつもそれぞれの思惑で観察してすごしている。
 ここにこうしている自分の存在が何なのか、まわりにいる自分と同じようなものたちが何なのか、それもリンにはあまりよく分からない。気が付いたら自分というものがいた、そこにとりたてて興味や疑問を差し挟む気はわいてこない。
 リンの姿は、十歳程度の子供の姿だ。身に付けているものは、半ズボンの洋装。洋服、ではない。今この店を訪れる者達の身軽な姿と比べると、服の仕立てはしっかりしているが、なんとも古めかしい印象をぬぐえない格好だ。
 この店に来る前のリンの記憶は、ふわふわとあったかい毛皮にくるまれていたことで、大半が占められている。
 ちりりりん。
 大きくも小さくも無い銀の丸い鈴は、一匹の黒い猫の首元で、いつも誇らしげに、可愛らしく揺れていた。尻尾の長い、黒い毛皮の美しい彼女はとても敏捷で、しなやかで、そして賢かった。
 彼女のふわふわした身体から、突然あたたかさが失せてしまったときのことを、リンは今もよく覚えている。
 いつもと同じ散歩道を、長い優雅な尻尾を誇らしげに立てて彼女は歩いていた。美しい生垣に囲まれたそこは、普段は滅多に馬車も車も通らない道だった。
 安心していつもの道を歩いていた彼女に、そのエンジンを積んだ鉄の塊はいきなり襲い掛かった。巨大で恐ろしく凶暴な鉄の塊に、うずくまり身動きができなくなった彼女の小さな柔らかい身体は、簡単に跳ね飛ばされた。彼女の身体から流れ出す赤く暖かい液体が、首輪も、リンの身体も、あっと言う間に真っ赤に染め上げた。彼女を撥ねた鉄の塊は、止まりもせずにどこかに走り去っていった。
 リンは必死で、大好きな彼女の名前を呼んだ。でも彼女の身体からは、すでに彼女は離れていた。
 泣きじゃくるしかできなかったリンは、そのときふわりと、もう動かない彼女と一緒に自分が持ち上げられるのを感じた。
 自分の腕や身体が汚れてしまうのも構わず、彼女のぐったりした黒い身体を抱き上げた着物姿の男は、とても痛ましげな表情をしていた。
『彼女と一緒に眠りたいですか?』
 男は近くを流れていた川原に小さな穴を掘り、そこに彼女の美しい身体を横たえてから、静かにそう言った。
『……会いたい』
『彼女は、残念ながらもういないのですよ。彼女と一緒にここに眠るか、それとも私と来るか、それしかあなたには選べません』
『いやだ。会いたい』
 ぼろりと頬に大粒の涙がこぼれた。男の前に、彼女の横たわった小さな穴を挟んで、リンは座り込んでいた。
『会いたい。会いたいよ……』
 男の汚れてしまった形の良い指が伸びて、横たわる彼女の首から、リンはするりと抜き取られていた。
『では、私と一緒においでなさい』
 掌の中の銀の鈴に向かって、男は言った。
『いつか会える、とは言いません。でも、あなたは眠ることを拒んだのだから』
 ちりりりん、と、その掌の中で、銀の鈴が震えるような儚い音を立てた。


 それからリンは、彼を連れ去った男、つまり店主と共に、ずっとこの骨董品屋にいる。
 時折仲間達が買われていく。この店にあるのは、どれもこれも自分と同じように、「人間」達の言い方をするならば「何かが憑いた」ものばかりだ。買われてそれっきり戻ってこないものもいれば、いくらか経ってから戻ってくるものもいる。
 売り物として展示されている以上、いつかはリン自身も誰かに買われていくのだろうと思うが、今のところ誰もリンを連れていく者はいない。
 ……残念なのか、嬉しいのか、自分でもよく分からない。
 自分は猫の鈴だから、また誰かの首元に揺られたい気もする。何十年も、下手をしたらそれ以上もの時間が経って、今ではもう彼女の感触以外に昔のことは思い出すこともできない。だけれどそれを想像するたびに、ぞくりと全身を悪寒が這う。黒い毛皮の美しい彼女が、ただの冷たい塊になってしまった日の記憶が、恐ろしい怪物のように襲ってくる。
 そのことを思い出すのが嫌だから、ことさら何も考えず、葛篭の上に座って店内を眺めている。


 その日は、店にずっと昔からあった指輪がひとつ売れた。リンとは比べ物にならないほど、ずっとずっと昔から売れ残っていた指輪らしい。その指輪が売れたことが嬉しいのか(代金を取らなかったようだから、売れた、という表現は間違っているのかもしれないが)、それとも指輪を引き取っていった大人しい印象の女性を気に入ったのか、そのお客が帰った後の店主はやけに上機嫌に見えた。
「あんたって本当に意地悪」
 小さな膝小僧に頬杖をついて、リンは売り物の並びを整えている店主に言う。
「普通に送り出してやりゃいいのにさ。あんたにも素直だった頃なんてあったりするのかな」
「どうでしょう」
 店主が受け流すように答え、それからふいに長い睫毛をまたたかせた。
 頬に落ちてくる後れ毛を押さえながら、紫の暖簾が微風に揺れている出入り口に向かう。
 何かあったのかと、リンは葛篭の上から身を乗り出して店主の後姿を見送った。
 さしたる時間も置かず、店主の姿が暖簾の向こうに現れる。両手がふさがっているらしく、肩で軽く押しやるように暖簾をよけて入ってきたその姿に、リンは自分の背中が硬く強張るのを感じた。
 店主の腕には、一匹の黒猫が抱かれていた。
「……その子は?」
「店の前の小道にうずくまっていたんです。怪我をしているようですね」
 店主は店の奥にそのまま進み、ゆったりとした籐編みの椅子に黒猫を下ろした。リンもつられるように葛篭から飛び降り、そちらに駆け寄っていた。
 綺麗な黒い毛皮。ほっそりした優雅な手足。ぴんと立った三角形の耳。それらを見るだけで、いやおうなしにずっとずっと昔いなくなってしまった彼女を思い出してしまう。
 クッションの上に横たえられた黒猫は、案外と元気そうだった。ただ、左の前脚の毛皮が一部抉れて肉が見え、痛々しい赤色が覗いている。
「喧嘩をしたのか、どこかで引っ掛けてしまったのか……でも左脚の他は、たいした怪我の様子もないですね」
 椅子の前に屈んだ店主が、安心させるように黒猫の額を撫でると、黒猫はされるがままにその目を瞑った。白い指先がその喉下にもぐり込み、耳元にかけてをやわらかく撫でてやると、黒猫はすっかり安堵したようにその手に頬をこすりつけた。
「そっか。よかった……」
 心からリンは呟いて、大きく両肩を落とした。ここにいるのは彼女ではない、そんなことは分かっていても、黒猫というだけでどうしても彼女と重ね合わせてしまう自分がいた。
 店主の指が離れると、黒猫は不自由な身体で伸びをするように身じろいだ。その大きな琥珀色の瞳が、すぐそばから様子を見つめているリンの姿を映し出した。
 ぴん、と真っ直ぐに伸びたひげと耳が揺れた。
「おや」
 それを見た店主が、微笑するようにごくわずかに目を細めた。着物の裾を押さえながらすいと立ち上がって、どこかへ歩いてゆく。
 すぐに戻ってきた店主の手には、綾織の首輪のついた銀の鈴が乗せられていた。
 大きな瞳をぱちくりさせてたリンに構わず、店主は再び椅子の前に屈み、黒猫の首にその首輪を結びつけた。ちりん、と軽く鈴の音が響く。満足そうに、黒猫はにゃあと鳴いた。
「人間ではなくて猫が選ぶというのも、ありかもしれませんね」
 そんなことを言った店主に、リンは目を向ける。その瞳が不安を帯びて揺れるのを、優しい瞳が見返した。
「大丈夫ですよ。彼女もここを気に入ってくれたようです。このあたりは車も通りません。どこまでいくと車が通って危ないのかも、きちんと私が教えておきますから」
「……そっか」
 それを聞いて、リンの瞳にようやく雲間から光が差すように明るさが広がる。黒猫が立ち上がろうとしてよろけ、慌ててリンがその身体にふれた。
「あ。だ、だめだよ。早く手当てしてあげてよ。痛いって」
「はいはい」
 懸命な様子のリンに、店主が軽やかに微笑した。


 元気になった黒猫をじっと真正面に覗き込んで、リンは呟く。
「……とっても綺麗だ」
 はたり、と長く優雅な尻尾が揺れてクッションを軽く打った。
 細い腕が黒猫の細い身体をそっと抱き締め、そのあたたかくふわふわとした毛皮の感触に、リンは目を瞑って頬ずりをした。記憶に残っている、大好きな彼女と同じ感触がした。
「よろしく、新しいご主人さま。……あなたと僕、うまくやれるかなぁ?」
 ──勿論。
 はたり、とまた黒い尻尾がクッションを軽く打った。ちりりりん、と軽やかにその喉下で銀の鈴が鳴った。


(了)

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