考えてみれば今夜どこかに泊まる算段もしていない、というエミルに、仕方なくカーレルは、「今夜一晩なら部屋で寝かせてやる」と言い、連れ立って食堂を出た。
「ただし床で寝ろよ。あ、ちなみに余分な毛布もねえからな。そのへんはてきとーに自分でなんとかしろ」
実に久方ぶりに心ゆくまで食事を堪能し、どうやら上機嫌であるらしいカーレルは、先に立って鼻歌を歌いながら、ぷらぷらと夜道を歩いてゆく。
その後ろに続いて歩きながら、地霊の兄弟である小人達がエミルに話しかけた。
「……それにしても。まったく、あんさんも見かけによらず奇特なお人でヤンスね。なんだってあんな、鬼畜のような人間のところに弟子入りしたい、なんて思ったんでヤンスか?」
「うん。それは我ながら、不思議に思わないでもないんだけれどね」
ぽくぽくと小人達のペースに合わせて歩きながら、エミルはおっとりした顔で、案外遠慮のないことを言った。
「ひどい人だけど、悪い人じゃないと思うんだ。留置場に放り込まれていたとき、僕のことを言えば出てこれたんだろうに、結局黙っていてくれたわけでしょう?」
「ふむう」
「それに留置場から出た後も、僕のことを突き出そうとはしませんでした。あのとき保安官さん達にあの人がかけたのは、ごく短時間の間だけの記憶を奪う、一種の忘却魔法だと思います。僕の記憶を、保安官さん達から消してくれたんですよ」
「……ご主人が黙っていたのは、単にあまりに自分が胡散くさすぎて、本当のことを言っても取り合ってもらえない自覚があったから。記憶を奪ったのは、牢をぶち破って逃げたことを隠すため。じゃ、ないずらか?」
脇から疑惑の眼差しで発言したマンデーに、エミルはやわらかく頬を崩した。
「そうかもしれません。でも、あの人が僕を売ろうとしなかったことは確かでしょう」
「良い子なんずらねえ、エミルぼっちゃんは」
「あはは。まあ勿論、大陸中に名の知れた凄腕の魔道士として、そういう人のところにどうせなら弟子入りしたかった、という気持ちもありますけれどね」
そんなことを話しながら歩いていた三人は、唐突に夜道の途中で立ち止まっていたカーレルの後姿に突き当たった。
この界隈のように下町と呼ばれるあたりは大抵そうだが、あまり街灯の整備も行き届いておらず、場所によって道は濃密な闇に満ちている。人が住んでいない廃屋もところどころにあり、カーレルが足を止めたのは、誰も住んでいない安普請のアパートメントが傍らに建つ、無人の裏通りだった。
「どうしたんでヤンスか、ご主人? さては空腹のところにいきなり詰め込んだせいで、腹具合でも悪くなったんでヤンスか」
「俺のハラはそんなヤワくない」
カーレルは振り向いて言い、そのまま前方に視線を転じた。
街灯の光や建物の窓から洩れる明かりがちょうど届かない、切り出したような暗闇の満ちる路地。
「おい、出て来いよ。それで待ち伏せてるつもりか?」
その闇に向かって、カーレルがごく無造作に投げ込んだ言葉に、エミル達はキョトンとした。
まったく構う素振りもなく、カーレルはその場に留まる姿勢で片手を腰に当てる。
「手品はネタが割れたらさっさと幕を引くもんだぞ。俺は今けっこうご機嫌だから、黙って退散するなら見逃してやる」
カーレルの言葉が終わるか終わらないか、のうちだった。
濃密な闇の向こうで何かが素早く動く気配があり、それは建物の陰から路地に躍り出て来ると、奇声だか掛け声だか判別しがたい声を発しながら、まっしぐらにカーレルめがけて突き進んできた!
「カーレルさん!?」
それがナイフを構えた、くるぶしまで隠れる長衣をまとった二人の男であることを見て取ったエミルは、あまりに突然のことに裏返った声を上げた。
カーレルはそれに見向きもせず、向かってくる二人の男に向かって、ゆっくりすぎるほどの動作で歩き出した。
驚きにエミルは悲鳴すら飲み込んだが、エミル以上に驚いたのはナイフの男達だろう。あまりに堂々と歩いてくるカーレルに思わずたたらを踏み、慌てて気を取り直してナイフを構え直す。
その一人の前に到着したカーレルは、ぞんざいな仕草で、左手でナイフを握った男の右腕をぱしんと払った。次の呼吸で、がらあきになったその懐に踏み込むと同時に、曲げた右腕を肘から男の首筋に食い込ませていた。
声もなく失神した男にそれ以上構わず、撃ち込んだ肘から跳ね返った反動にそって身を反転させる。そばにいたもう一人の手からナイフを蹴り上げ、腰を落として引き戻した同じ脚で、側頭部に強烈な蹴りをお見舞いした。
悲鳴を上げることもなく男はすっ飛び、ずざざざっ! と地べたをすべって動かなくなった。
エミルはぽかんと目を丸くした。ごしごしっと目をこする。
──乱闘する魔道士? しかもなんというのか、やたらと手馴れていないか?
我が目を疑う思いで頭を振ったエミルは、カーレルに目を戻して愕然とした。闇の向こうに突如として発生した火炎の塊が、カーレルに向かって襲い掛かっていったのだ。
「カーレルさん!!」
火炎弾に真向かって立ったカーレルは、口の中で素早く《呪文》を唱える。瞬間に、弧を描いてカーレルの前に金色の光の壁が出現した。
それは襲ってきた火炎弾をことごとく遮り、あるいは受け流して逸らす。光の壁と火炎が接触した際のフラッシュで、あたりは真昼のように数秒の間明るくなった。
「……すごい」
そのフラッシュがおさまり、あたりに静けさが戻ったとき、ようやくエミルは呟きを発した。
あの火炎弾、あれは闇の向こうに潜んだ何者かが放った魔法によるものだと、魔力の気配でエミルは理解していた。
そしてそれを遮ったカーレルの光の壁も、魔法によって彼が生み出したものだ。
つまりカーレルは、ナイフの男たちを撃退しながら、その間にも呼吸を整え、いつでも魔法を発動できるように体内で魔力を練り上げ、魔道発動の構成を編んでいたのだ。信じられない魔道技術の練達と、天賦であろう闘いにおける勘の良さ。
「こういうときになると、無性に生き生きしてくるんでヤンスよねぇ、ご主人は」
エミルの脇で、サンデーが日常茶飯事的に論評するのが聞こえた。
エミルはただ唖然とするばかりで、ろくに言葉も返せなかった。ただなんとなく、あまりにも次々に「魔道士」という神秘なる存在に対するイメージを粉砕していくカーレルに、内心で頭を抱えた。
「おまえら、ギルドの魔道士だな?」
一方カーレルは、もはや隠れていても無意味だと悟ったのか、闇の向こうからうっそりと姿を現した者達に向かい、そう声を投げていた。
その言葉にまたしてもエミルは驚いたが、そのとき同時にカーレルも、何やら驚いた──というよりも、悪戯を見つかったような顔になって、小さく舌打ちした。
「……げ。おまえもいたのかよ、レラ」
闇の向こうから現れたのは、引きずるほど長い闇色の長衣を身につけた、いかにも魔道士然とした男が三人。それに、長い錫杖を持った若い女性が一人。彼女だけは、二の腕まである長い手袋と、膝よりも少し長い程度の丈のまだしも動きやすそうな長衣を身に着けている。
夜目にも艶やかな、癖のない栗色の髪を長く背になびかせたその女性に、エミルはつい目を奪われた。顔立ちはよく整い、率直にいって美人だったが、何か表情に乏しく、なまじ端整なだけに作りものの人形めいて見える女性だった。
彼女はその白い顔を、淡々とカーレルに向けた。
「相変わらずやりたい放題のようね、カーレル」
「仕掛けてきやがったのはそっちじゃねーか」
むっとしたように指を突きつけて言ったカーレルの前に、男の一人が数歩進み出た。
「……なぜ我々が待ち伏せしているとわかった?」
眉間に難しそうなしわを刻んだ男が顔を歪めて問うと、カーレルは鼻で笑った。
「おまえらみたいなズブの素人に、待ち伏せなんて器用なワザがつとまってたまるかってんだ。だいたいおまえら、刃物なんてロクに持ったこともねーんだろ? 魔法にかけてはどうだか知らないが、闇討ちなんざ所詮素人の出る幕じゃないぜ」
「あ、あのぉ、カーレルさん……」
余裕たっぷりの様子のカーレルに、エミルは控えめに近づくと、その上着の端を引っ張った。
「何がどうなっているのか、分かってるなら説明してくれませんか。その人達がギルドの魔道士っていうのは、どういうことなんです?」
「んぁ?」
「なんでギルドの人たちが、カーレルさんを襲うんです。モグリだって、同じ魔道士仲間じゃないですか」
ああ、と理解したようにカーレルは呟き、余裕をことさら見せ付けるように腕組みをして、目の前にいるギルドの魔道士達を斜に見やった。
「おまえも言っただろう。力の強い魔道士はギルドにとって権威の象徴だ、って」
「はい」
「ただしそれは、ギルドに所属していれば、の話だ。ギルド要員じゃねえなら、それこそ力のある魔道士なんて単にギルドの権威を傷つけ脅かす存在でしかない。特に俺みたいな、ギルドで最高の力を持つ魔道士さえ凌ぐほど腕の立つ、モグリの天才魔道士なんてな」
「そんな……」
「こいつらは昔っから、何度勧誘してもなびかない上にギルドのショバ荒らしをしてるような俺が、大っ嫌いで目障りで仕方ねーんだよ」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい」
レラ、とカーレルが呼んだ栗色の髪の女性が、厳しい表情で薄い桜色の唇を開いた。進み出た動きに、彼女の持つ錫杖の頭についた連環が、しゃらんと音を立てた。
「あなたのように法も秩序もない非道の魔道士を、秩序を守るべく設立された我々ギルドとしては、放っておくわけにはいかないのよ」
「おまえがそうカタっ苦しいのは勝手だけどなあ。俺を巻き込むなよ、ンなことに」
カーレルはふいと彼女から目をそらし、どこか困ったようにぼりぼりと頭を掻いた。
「黙れ、この不届き者が!」
難しい顔をした男が、手にしていた魔道士の杖をカーレルに向かって突きつけ、鋭く一喝した。
「貴様のような非道の魔道士には、制裁と改心が必要なのだ。我々魔道士は、一般人とは異なる、神秘なる強い力を持った存在だ。ゆえにその力の制御と抑制には、いっそう注意深くならねばならん。大陸中の魔道士が、貴様のように秩序もなく魔法を振るってみろ。大混乱に陥るわ!」
細い顎をひいて頷き、レラが続けた。
「その通りです、隊長。さあカーレル、おとなしくなさい。逆らうようであれば、私達もあなたに手荒な真似をしなければいけない」
彼らの方がそもそも仕掛けてきたのであり、既に充分手荒な真似をされているのであるが、誰もそこに異議は唱えなかった。人徳、というもののせいかもしれない。
黙って聞いていたカーレルは、ふっといかにも小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「確かに非道かもな。けど俺をおまえらが目障りに思う理由は、もっと別のところにあるんだろ?」
「カーレル、挑発はやめなさい」
言ったレラを遮る勢いで、彼女に隊長と呼ばれた難しい顔の男が大きく前に出た。
「黙れ、この危険分子が! 貴様のような世界律の敵には、我々が世の理に従って天誅を下してやる。恨むなら自分を恨むがいい」
「天誅」の一言と、隊長が編み始めた魔法の気配に、えっとレラがサファイア色をした瞳を見開いた。
「隊長、私達は彼をギルドに連行するのが任務のはずでは?」
「レラ、構えなさい。それは表向きのこと。我々の任務は、この男の抹殺だ」
これ以上の議論は無意味とばかりに、ギルドの男達はそれぞれ魔法発動の構えに入った。
ある者は胸元で《魔法印》を結び、ある者は指先で宙に描き出し、異世界に棲まうものたちの力をこの場に引き出すべく《魔法文字》を編んだ《呪文》を唱える。
魔法、と一言に括られる現象のメカニズムは、大別して二種類に分けられる。異次元や異世界に棲む様々な存在の力を引き出す《魔道》、もう一つは自己の純粋な魔力と精神力のみを源泉として発動される《精神魔法》。
ギルドの魔道士達がこのとき行使したのは、低級から中級の位階に属する妖精や精霊の力を借りて発動される、最もポピュラーな《魔道》のひとつ、「精霊魔法」と呼ばれる類のものだった。
たちまちその場に編み上げられてゆく攻撃的な魔道の構成に、レラはさらに目を見開いて首を振った。
「いけません隊長、みなさん。抹殺などとそのようなこと、道義にもとります!」
「先に道義にもとった不届き者はあちらの方だ。構うことはない!」
「いけません! そのようなことに魔法をふるっては……!」
膨れ上がってゆくギルドの男達の殺気と魔力に、レラがもはや制止は不可能であることを悟ったように息を飲んだ。
エミルもまた、背筋が震えるような、これが殺気というものなのか、と初めて理解した感触に、我に返って声を上げた。
「危険です、カーレルさん、逃げて──」
「隊長、逃げてっ!!」
悲鳴のような、レラの声が重なった。