「麻奈は、大学にはいかないの?」
朔にある日、何気ないように尋ねられた。どうしても学校のことが気になって、今授業はどこまで進んでいるのだろうかと、教科書をぼんやりとぱらぱらめくっていたときのことだった。
「……わかんない。あたし、ヒキコモリだし」
学校に行かなくなってから、かれこれ二ヶ月くらいだろうか。テストも全部すっぽかしてしまっている。このままでは進級もあやういだろう。
でもそもそも、もう学校も勉強も、どうでもいいやという気持ちも強い。
どんな顔をすればいいのか分からなくなって、えへへーとごまかすように笑ったら、朔が投げ出されていた麻奈の教科書を取ってめくり始めた。
ちなみに実体のない彼に麻奈からふれることはできないが、彼の方からは意識を集中すれば、ある程度「この世」のものに干渉できるそうだ。
「……教えてあげられるかもしれない。まだこの範囲なら」
言った彼に、麻奈は驚いて目を上げた。
「え。まじ?」
「いちおう先輩ですから。これでも」
そういえば、朔は同じ高校の生徒だったという。有名進学校だし、そこに在籍していたくらいなのだから、勉強ができないわけがない。
麻奈は悩んだが、結局彼に勉強を見てもらうことにした。
本音を言えば、これで彼が麻奈のもとを確実に訪れる口実と約束を取り付けたようなものだったから、そちらの方が麻奈には重要だった。
朔の教え方は上手で、いつの間にか麻奈は、彼に教えられながら勉強すること自体を楽しんでいた。
──そっか。あたし、けっこうベンキョーって嫌いじゃなかったんだ。
知らないことを知るのは楽しいし、新しい問題を解くことも楽しい。
そんな自分を再発見することもまた、新鮮だった。
「あら、麻奈」
ある日起き出して一階に降りて行くと、そこには出勤前らしい母がいた。
麻奈がすべてを避けるように部屋に引きこもりがちになってから、あまり顔を合わせることもなくなった母。不仲からの夫の浮気と家出から、母自身も何かと忙しなくしており、不登校を四六時中責められることはなかったのは、麻奈にとって不幸中の幸いではあった。
もともと在宅で仕事をしていた母は、あれからどこかのデザイン事務所だかに就職して、毎日出勤していく。帰りも遅いし、帰ってこない日も度々ある。
仕事であることに嘘はないのかもしれないが、母の装いがだんだん派手に若々しくなっていることに、麻奈は気付いていた。
以前は顔を合わせるたびに学校に行けとガミガミ言われたが、今は学校も冬休みの期間中であるせいか、今日はそこまでひどくは叱られなかった。
忙しげに身支度を整えながら、それでも母は愚痴愚痴と何か言っていたが、麻奈は黙ったままそれを意識の中から閉め出していた。
どうせこの人は、麻奈の言うことなんてまともに聞こうとしない。その口から出るのも、愚痴か八つ当たりかお小言ばかりだ。そんなもの聞きたくもない。聞くたびに自分が澱んでいくから。
「聞いてるの、麻奈?」
苛立ったような声がして、はっと麻奈は下を向いていた顔を上げた。
「あ……なに?」
見ると、高そうなコートを着込んだ母が麻奈を睨んでいた。こんな派手なコート持ってたっけ、と麻奈はぼんやりと思った。
麻奈が聞いていなかったことを察してだろう、母の表情が険しくなった。
「冬休みが明けたら、学校に行きなさいねって言ったのよ。引きこもりなんてみっともない。これ以上、お母さん許しませんからね」
黙り込む麻奈の前を横切って、母が早足で玄関に向かう。母が通り過ぎたとき、明らかに香水の匂いがした。以前はそんなものは、母はつけていなかった。
母の出て行ったドアを睨みつけながら、麻奈は手を握り締めた。そして思い切り、手元にあったティッシュの箱をドアに投げつけた。
みっともないのはどっち。お父さんが浮気してるって分かった途端、自分も男でも作ったの?
沸々と湧き上がる怒りと、嫌悪感と、胸が潰れるような悲しさとやりきれなさ。
汚らしい。学校にいけ? みっともない? それだけがそう言う理由?
麻奈の気持ちなんてなんにも聞こうともしないで、麻奈の気持ちなんて何も分からないで。ほったらかしか、頭ごなしに叱るばっかりのくせに。麻奈のことなんか、なんにもなんにも知らないくせに。
涙が出そうになって、ぎゅっと目を瞑った。
──朔。朔、早く来て。どんどん気持ちが澱んでいく。
朔の綺麗な顔が見たい。綺麗な表情が見たい。それだけで、どろどろの自分の中が洗われるような気がするから。
──あたしを助けて、朔。
朔は麻奈のことを何も聞こうとせず、説教めいたことも一切言わず、麻奈が家にいつもほぼ一人であることについても、何も言わない。
だから麻奈には、余計に彼と笑ってすごす時間だけが夢見心地で、不安で寂しすぎる現実を忘れていられる時間になった。
──本当にこれは幻覚じゃないんだろうか?
麻奈は度々そう、自分に問いかけてしまう。
幽霊なんてものが本当にいるとは思えない気持ちがまだあるし、幽霊というものに対して漠然と抱いていた「暗くて不気味で恐いイメージ」とは、朔はあまりにも程遠い。
ベランダの窓から軽くノックする音がして、そこにふわりと立っている仄かに光る姿を見るたびに、麻奈は嬉しくて笑顔になってしまう。
幽霊でも幻覚でもいいや。だって、彼は今確かにそこにいるもの。
たとえ自分が今本当はどこかおかしくて、都合のいい幻覚を見ているだけだとしても、幸せならそれでいい。
「あ……」
そんなある日。本当に突然、麻奈は思い出した。
きちんと毎日雨戸を開けるようになった窓から、よく晴れた冬の青空が見える午後。どうせ暇だし、少し勉強しようかと参考書を開いたとき。
「朔、って……」
自分の通う高校の生徒だったと言っていた。その珍しい名前に、どこかで覚えがあると思っていた。
まさか、と思ったとき、麻奈は上着を掴んで家を飛び出していた。
全国区のニュースとしては、それほど大きく取り上げられたわけではなかった。だがそれは、数年前このあたりでは大きな騒ぎになった出来事だった。
図書館に駆け込んで、漠然とした記憶を頼りに司書に案内を頼むと、ほんの数年前に起きた有名な騒ぎであっただけに、さほどもせずにその出来事を報じた新聞や情報誌を引っ張り出してくれた。
それは、この地域に拠点を置く有名な代議士の息子が失踪した出来事。それにまつわる事件性、その捜索に関わる一連の騒ぎを報じたものだった。
まさか、と思いながら、失踪したその人物の情報をたどる。
失踪した少年の顔写真を見た瞬間、印象がかなり違うが、明らかに目鼻立ちに覚えがあることに、麻奈は軽い目眩を覚えた。
その写真の下にある文字に、何度も目を走らせる。
遠藤朔。失踪当時十六歳。通っていた高校から下校する姿を目撃されたのを最後に消息不明。
彼が失踪した日付は、もう今から五年も前の初夏の日付だった。