翌朝になっても、麻奈の家は冷え切ってガランとしていた。
パジャマ姿のまま、雨戸が締め切られて暗いリビングに降りていくと、テーブルの上に一枚のメモといくらかのお金があった。
仕事が忙しいことと、しばらく帰宅できないという内容の母親の文字を見て、麻奈はそれを丸めると思い切り放り投げた。メモは白い壁に当たって、あっけなくぱたりと落ちて転がった。
雨戸を締め切り、ベッドに転がったまま、麻奈は鬱々と時間を過ごす。
今年の春高校に入学したばかりのときは、こうではなかった。
麻奈なりに必死で勉強して、なんとか合格した県下トップの進学校。
その頃はまだ、この家に父親も母親も揃っていた。たとえ顔を会わせるたびにふたりが険悪な怒鳴り合いをしていようと、家中の空気が年中ぴりぴりしていようと。
両親は昔から、麻奈がテストで良い点を取ると喜んでくれたから、麻奈は入学してからも頑張った。もっともその頃には、麻奈がどんなに良い成績をおさめても、二人はそれが当たり前だという顔をして、もう笑ってくれなかったけれど。
最初は友達もたくさんいて、少なくとも学校にいる間は、寂しいと思うことはなかった。
しかしクラスの女子のリーダー的な少女とささいなことで喧嘩をしたときから、麻奈の環境は一変した。進学校なせいか、いわゆる陰湿ないじめはなかったが、誰もが麻奈と距離を置き、麻奈がいないもののように振る舞い始めた。
人付き合いで困ったことや、うまくいかなかったことなんて、これまで皆無だった麻奈は、ひどく戸惑った。突然友人達の輪からはじき出されたとき、何をどうすればいいのかも分からなかった。
最初こそ、自分の勘違いだ、気にしすぎたと思って、普段通り彼女達に話しかけ、とけこもうとした。けれど彼女達は、麻奈のことをやんわりと、しかし徹底して拒絶した。
いっそ明確な嫌がらせがあった方が、まだ対処しやすかったのかもしれない。麻奈の知らないところでは、麻奈に関する何らかの遣り取りは交わされていたのかもしれないが、少なくとも表面上は、あくまでも具体的ないじめ行為はなかった。
誰からも声をかけられず、話しかけても表向きは丁寧に、その実素っ気なく会話を打ち切られ。SNSに一言のメッセージが来ることもなく、発言しても誰も答えず。ただひたすら、いないもののように扱われる……。
そんなことが続くうち、麻奈は完全に途方に暮れた。
麻奈とリーダー格の少女との喧嘩には、本来クラスメイト達は無関係であるはずなのに。こんなふうによってたかって仲間はずれなんて、ひどい。
彼女達に対して、もう少し強く出ようかと思ったときもあったけれど、そもそもの原因が、喧嘩を起こした自分の勝ち気さだった。それを思うと、下手をしたら状況がますます悪くなるのではと、ふいに怖くなった。
何より、下手に学校内で揉め事を起こして、それが両親に伝わることが怖かった。
──せめて、クラス内に埋没しよう。できるだけ教師達に異常を感じさせず、浮かないようにしよう。
そう思い、ひとりですごす学校は、あまりに寂しかった。それでも成績は落としたくなくて、懸命に勉強と通学を続けた。
そんな数ヶ月が続いた頃。父親が、家に帰って来なくなった。
父親の姿を見なくなってから数日後、学校から帰ると、母が居間で狂ったように携帯電話に向かって何か喚いていた。
そんな母の様子が、異様な空気が怖くて、心臓が今までにないほど激しく動悸した。震えて少し痺れてさえいる指先で、居間へのドアをそっと開いて、母親の声に聞き耳を立てた。
どうやら父親が、外に女性を作ったらしいことを知った。
電話が切れたあと、恐る恐る呼びかけてみたが、ソファに突っ伏した母は「うるさい!」と電話を投げつけてきた。電話は咄嗟に顔を庇った右手の指に当たって、小さな傷を作った。小さな傷なのに、痛みはひどく、流れ出した血は滴になった。
ぷつり、と、麻奈の中で何かが切れた。
麻奈は二階の自室に入って鍵を閉めて、声も出さずに泣きながら、制服のままベッドにもぐり込んだ。
その日から、麻奈は母とほとんど口をきかず、学校に行かなくなった。
誰かと会話をすることが極端に減っていた麻奈にとって、「朔」と名乗る幽霊の少年と話すことが何よりの楽しみになるのは、時間の問題だった。
毎日ではないが、朔は夜になるとふらりと現れて、窓をコンコンとノックする。
そして、たわいもない話をしては帰ってゆく。
元々彼にはそのつもりはなかったのかもしれないが、帰りがけに必ず麻奈が「また来れる?」と聞くので、いつの間にかそうなっていた。
幽霊である彼が、どこから来てどこに帰るのか、麻奈にはまったく分からない。そもそも朔がいわゆる幽霊である実感が、未だに麻奈にはない。
寂しさのあまり幻覚を見ているのではないか、という自分への疑いさえ、正直を言えば、未だに捨て切れなかった。
そんな不思議な出来事ではあったが、それは鬱々としていた麻奈の日常を、次第に変化させた。
一日のほとんどを、ベッドでパジャマのまますごすことが当たり前になっていたが、朔が訪れるようになってから、麻奈はきちんと起き出して洋服に着替えるようになった。
最低限の家事しかしておらず、荒れていた家の中も、少しずつ片付けるようになった。
やるべきことをやらず、自分がどんどん怠惰になっている、という自己嫌悪と罪悪感も、麻奈を余計に鬱々とさせていたので、そうするだけでも気分がかなり明るくなった。そのことに、自分で驚いた。
朔が姿を現していられる時間はそれほど長くはなく、どういう加減なのか、日によっても違う。
一緒にテレビを見たり、どうでもいいような話をしたり、好きな本や映画や音楽の話をしたりしていると、それこそあっという間に時間が過ぎてしまう。
それでもその不思議でたわいもない短い時間は、今の麻奈にとっては何よりもなくてはならない、大事な時間になっていった。