優しい月-Missing link- (2)

 自宅に着いたら、あと二時間ほどで日付が変わるというくらいの時間になっていた。
 住宅街の中にある、ごく一般的な一軒家の窓には、しかしひとつも明かりは灯っていなかった。
 暗く沈んだその光景を見て、麻奈は気分がすとんと沈み、それで自分は多少なりとも窓に明かりが灯っていることを期待していたのだ、と自覚する。
 馬鹿みたい。
 惨めな気持ちになって、麻奈は黙って鍵を開ける。誰もいないのに、逃げるように暗い中を二階の自室に直行した。
 自室のドアを開けると、暗い部屋の空気は寒々としていた。後ろ手に閉め、やりきれない気持ちがおさまらないままドアに寄りかかった。
「今日は留守番?」
「ひゃっ!?」
 うつむいてぼんやりしていたら、いきなり自分以外の声がして、麻奈はドアに張り付くように飛び上がった。
 目の前数歩の距離に立っていた半透明のぼんやり光る姿に、あ、そうだった、と思い出す。と同時に、また信じられないような気分になる。
「……ほんとにいた」
 思わず言うと、半透明の少年が小さく笑った。
「だって、ついて来いって言ったじゃない」
 そうだけど、と口の中で返しながら、麻奈はあらためて目の前に立っている不思議な姿を見直した。

 ──学校の屋上で突然空中に浮いていた、「明らかにこの世のモノではない」少年。
 家まで送ってくれ、というこれも突然の麻奈の言葉に、少年はきょとんとはしていたが、すんなりと「いいよ」と応じてくれた。
 ただし、姿を現しているのは疲れるから消えておくけど、それでもいいのなら、と。
 麻奈が頷くと、目の前で少年の姿はすうっと消えてしまった。本当にあとかたもなく。
 屋上に一人ぽつんと残された麻奈は、ぼんやりと「今のは夢かなぁ」と考えた。
 考えれば考えるほど現実のこととは思えなくて、しばらく考えた末に、夢だな、と結論付けてしまった。
 我ながら最近の自分は情緒不安定だったし、幻覚のひとつやふたつ見えてもおかしくない気がする。
 ──いや、今こうやって目の前にまた見えてはいるけど。これが幻覚じゃないって保証もないよね。
 と思いながら、麻奈は手元の壁を探って明かりをつけた。
「あ」
 途端、ただでさえ半透明だった少年の姿が、いっそうかすんでほとんど見えなくなってしまった。
 麻奈は慌てて、また電気を消した。それで、少年も察したらしい。
「いいよ、点けて。これなら見える?」
 少年の姿が、それまでよりもすっと鮮明になった。
 麻奈がもう一度明かりを点けると、薄くはあったがきちんとそこに姿が見えた。
「……うん。見える」
 この子はいったい何なんだろう。
 あらためて考えながら、麻奈は部屋の中ほどに進む。
 明らかに生身の人間ではない相手であるだけに、こうしていても一向に現実味が湧かなかった。
 これは夢だ、と自覚しながら見るリアルな夢ってなんだっけ。明晰夢っていうんだっけ?
 この少年が何であれ、なんとなく目の前で着替えをするのも躊躇われて、勉強机の椅子に腰を下ろした。
 適当に座って、と促すと、少年も麻奈からほど近いあたりのカーペットの上に腰を降ろした。
 その姿を眺めながら、考える。
 ──率直に言って、この少年はいわゆる「お化け」とか「幽霊」と呼ばれる存在、のようには思う。
 人間ではない、という大前提のせいか、こんな時間に部屋に二人きりという状況でも、まったく抵抗を感じなかった。
 いや、そもそもこうしていても、頭のどこかで「これは夢か幻覚ではないか」と思っている自分がいる。
 思わずじいっと、麻奈はカーペットの上に座っている少年の姿を見つめてしまった。
「……君ってさあ。いわゆるユーレイってやつ?」
 夢なら夢でいいや、と思い、麻奈はさっくりと訊いてみた。
「うん。いわゆるそういうもんだと思う」
 麻奈が気易いせいか、少年も軽い調子で答えた。軽くはあるが、やはり落ち着いた声音。なんだか聞いていると安心するような。
「ふぅん。ユーレイなんてホントにいたんだね。あたし零感てやつだし、今までそんなもん見たこともなかったわ」
 しかも、そういうものと会話が成り立つということも驚きだ。
「今は、俺から見えるようにしてるから。そうじゃなかったら見えないと思う」
「へー。そんなのできるんだ?」
「あんまり長くは無理だけどね」
「そうなの? どうして?」
「んー……本当はこっちにいたらいけないから?」
「こっち?」
 質問攻め状態の麻奈に、少年が考え込むような仕種をした。
「この世、かな? 俺いちおう、成仏してるって部類に入るんだと思うからさ」
「成仏……」
 実際に幽霊であるという相手から聞くと、他で聞いたなら胡散くさいような言葉でも、やけに説得力があった。
「成仏とかあの世とか、ほんとにあるんだ」
 麻奈は少年に視線を向けたまま、机に頬杖をついた。
「俺にもよくわかんないけどね。気が付いたらこうなってたし」
 あくまでも雑談のように答えた少年に、麻奈はふとまばたいた。
 そうだ。当たり前のことだが、この少年が本当に幽霊とやらであるとするなら、彼はかつてこの世で生きていて、そして既に死んでしまった人間だ、ということになる。
 麻奈と同世代に見える彼が幽霊化するなんて、その原因は当然、自然死などというものではなく。何かしらのアクシデントだったのだろう。
「……あたし、本気じゃなかったからね」
 呟いた麻奈に、少年が黒い瞳を動かした。
 ごく何気ない眼差しでありながら、ふいに息が止まるほどそれが真っ直ぐに感じられて、麻奈は一瞬ひどくドキッとした。我に返って、慌てて逸らす。
「ほ……ほんとだよ。そんな度胸、あたしにないもん。いろいろあって、ちょっとへこんでてさ。その……ちらっとは考えたけど。全然本気なんかじゃなかったんだからね?」
「うん」
 それだけを少年は言った。また目が合うと、少年はごくやわらかい笑顔を見せた。
 ……綺麗だなぁ。
 こんなに綺麗な笑顔があるんだ、と思ってしまうような、こちらの気持ちまで洗われるような笑い方に、麻奈は思わず見とれてしまい、ハッとまた慌てて顔を逸らした。
「……き、君の方は、なんであんなところにいたの?」
 実際、それは気になることでもあった。
 どうやら既に成仏していて、この世にいてはならないようなのに、なぜこの少年はあんなところをふらふらしていたのだろう。
「ああ。あそこ、俺の通ってた学校なの」
 あっさりと少年が返した言葉に、何気ないつもりで聞いた麻奈は驚いてしまった。
「え……そうなんだ?」
「うん。眺める程度だけど、懐かしくてたまに行っちゃう。ほんとはいけないことだから、行きすぎると叱られちゃうんだけどさ」
 誰に怒られるんだろうとは思ったが、それよりもこの少年があの学校の生徒だった、という方が気になった。
 麻奈が屋上に立っていた、あの学校。それはつまり「麻奈が今通っている高校」である。
 ということは、この少年は、実は麻奈の先輩にあたるということだ。幽霊にその表現が当てはまるかはさておいて。
「君……名前、なんていうの?」
 現実のものとはとても思えないこの少年が、俄然身近な存在のように感じられてきて、好奇心のままに麻奈は尋ねていた。
「俺?」
「うん。他にいないでしょ」
 少年は少し言いよどんだようだったが、すぐに答えた。
「俺は、サク」
「さく? って、どんな字?」
 そこでまた、少年は沈黙した。睫毛の長い瞳を伏せて黙り込んでいる。
 何かまずいことでも聞いたのだろうか、と麻奈が心配になってきた頃、やっと少年が口を開いた。呟くように。
「新月の……朔月の朔」

 少し珍しい名前だった。
 名前と漢字を聞き、頭の中でその響きと文字が合致した瞬間、麻奈はふと、どこかでその名前に覚えがあるような気がした。
 だがその場では思い出せず、それからさほどもせずに、「朔」と名乗った少年は姿を消してしまった。どうやら本当に、本来その姿をまったく見ることができない麻奈のような人間の前に姿を現しておくことは大変らしい。
 突然姿が見えなくなってしまって慌てた麻奈の耳に、朔の柔らかな声だけが幻聴のように聞こえた。そろそろまずいから帰るね、と。
 それを聞いた麻奈は、咄嗟に「また来れる?」と言葉を返していた。
 少しの沈黙の後、柔らかな声は答えた。
 また来る、と。

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