優しい月-Missing link- (5)

「遠藤くん」
 と、その夜も窓のノックと共に訪れた朔に、麻奈は呼びかけた。
「……て、いうんだね。どーりで名前に覚えがあると思った。街中大騒ぎだったもん、あのときは」
 いきなり呼びかけられた朔は、明らかに驚いた顔をしていた。
 しかしすぐにその表情がやわらぎ、いつもの優しいものに変わる。
「そのうち分かるかな、とは思ってた。俺の名前、珍しいだろうし。学校のことも言っちゃったしね」
「びーっくりだよ、ホントにもー」
 カーペットの上に麻奈はぺたんと座り、そのすぐ横に朔も腰を下ろした。
 初めて見たときから変わっていない、朔の白い長袖のシャツに黒いズボンという姿。全体にうっすらと透けて、蛍光を帯びていて、現実味が欠け落ちた姿。
 麻奈は抱え込んだクッションに両肘をつき、じーっとそこに座っている幽霊少年を見つめた。
「……幻覚見てるのかなぁって、ずっと自分疑ってたんだよ、ホントいうと。でも、ホンモノなんだね」
「本物?」
「朔。ホンモノのユーレイなんだね、って」
 しみじみ麻奈が言うと、朔が軽い声を立てて笑った。
「幻覚じゃないことは保証する」
「うん。ちょっと安心した」
 麻奈も笑い、またじいっと朔を見つめた。
「……写真で見た感じと、随分違うね」
 写真ではもっと陽に焼けていて、髪も短くて、いかにも活発そうな少年だった。
「あの頃は、俺陸上やってたからね」
「うん。なんか書いてあったし、写真もあったよ。ハイジャンプってカッコイイね。写真キレイだった」
「写真……そんなの残ってるんだ」
 写真にあった姿に比べて、ずっと色が白くて線が細くて黒髪も長めの少年は、驚いたようにそう呟いた。顔立ちそのものも、写真にあった顔よりも少し大人びている。
 その黒い瞳の奥に、ひどく懐かしげな光が揺れたように麻奈には見えた。
「ほんっと、ユーレイなのが惜しいなぁ。朔が学校にフツーにいたら絶対告ってたよ、あたし。頭良くて運動できてイケメンなんてさぁ、めっちゃモテまくったでしょ」
「そうでもないけど」
「まったまたぁー」
 笑っていたら、ふと朔が真っ直ぐに麻奈を見た。いつものようにやわらかいが、何かあらたまったように見えるその表情に、麻奈は笑い声を飲み込んだ。
「あのね、麻奈」
「……うん?」
 心なしか身構えた麻奈に、朔はゆっくりと切り出した。
「俺、もう明日から来られないんだ。ここに」
 麻奈は、ただ彼を見返した。心のどこかで妙に冷静に、ああやっぱり、と思う自分がいた。
「言ったと思うけどさ。俺いちおう成仏してるから、本当はもうこの世に関わっちゃいけないことになってるの。それで……これ以上は、俺にとっても麻奈にとっても良くないからって、叱られちゃった。もう今日で最後にしなさいって」
「……そっか」
 麻奈はクッションを抱え、座り直しながら呟いた。
 本当は、この世にこうやって姿を現していること自体がいけないのだと、そんなようなことは最初から聞いていた。
 叱られちゃったって、誰が叱るんだろうとは思ったものの、幽霊である彼には、幽霊なりの都合や約束事があるのだろう。
「……うん。分かってたよ。今までが無理してくれてたんだもんね」
「うん。ごめんね」
 優しいがきっぱりとした朔の声に、麻奈はうつむいて、ぎゅうっとクッションを抱き締めた。
 ……わかっていた。幻覚なら、幻覚でもいいから覚めないでほしいと願っていた。
 でも彼は幻覚なんかじゃなくて、本当に過去に存在していた少年だ、と分かってしまったから。
 こらえようとしたけれど目頭が熱くなって、涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
「麻奈」
 ふいにすぐそばから声がした。真正面。
 驚いて、涙でくしゃくしゃのみっともない顔を上げてしまった。とても綺麗な朔の顔が、目の前にあった。
「駄目だよ。また死のうなんて考えたら」
 静かに言い聞かせるように、朔が言った。麻奈の瞳を真っ直ぐに見つめながら。
 真摯な黒い瞳は、麻奈の心の底の底まで見通すように透明で、けれどやはりどこまでも優しかった。
 その言葉を聞いて、その瞳を見たら、もう我慢なんてできなかった。一気に涙が馬鹿みたいにあふれ出して、麻奈はしゃくりあげた。
「……やっぱり、わかって、たの?」
 学校の屋上で会ったとき。麻奈が、あそこから飛び降りようとしていたことを。
「そりゃあね。夜の学校に忍び込んで、しかもあんな時間に屋上に出るなんて、ただなんとなくってだけで女の子がやれるもんじゃないよ。あそこ、いつも鍵かかってるし。そうしようって計画立ててたんでしょ?」
 朔の声がどこまでも優しくて、麻奈はますます涙が止まらない。
 その通りだった。まだ学校にいっていた頃、放課後に委員会の仕事で校内の鍵を借りたとき、ふと屋上の鍵が目に付いて──思い立って、こっそりと持ち出して合鍵を作っておいた。
 あの頃既に、麻奈はクラス中の女子から無視されていた。
 とはいえ、合鍵を作った時点で、飛び降りようとかそこまで考えていたわけではない。これがあれば、誰もいない屋上で時間を潰せるかな、くらいの考えだった。
 しかし実際には、日中誰にも見付からないように屋上に出ることは難しく、もし見咎められたら面倒なことになるのも間違いなく、結局その鍵を使うことは無かった。
 初めて使ったのが、あの夜……朔に出逢った夜だった。
 一度は、本気で死のうと思った。もう何もかもバカバカしくて、学校にもいきたくなくて、家の中もめちゃくちゃで。誰も麻奈のことなんて考えてもいなくて。誰もいないのに、この先一人ぼっちで生きていくことを考えると、寂しすぎておかしくなりそうだった。
 だからあの日、生徒が下校して校舎の鍵が閉まる寸前に、学校に忍び込んだ。そのまま物陰に隠れて、夜になってから屋上に上がった。
 目を瞑って、ぎゅうっと、ますます強くクッションを抱き締めた。手を伸ばしてもふれることもできない朔のかわりに。
「……朔のところに、いきたい」
「駄目」
 言い聞かせるように、朔が言った。静かで落ち着いた声。初めて聞いたときから耳に優しくて、心地良いな、と思った声。
「言ったでしょ。自分から死んだら、あの世にいけなくなるの。俺に二度と会えなくなるよ?」
「だって……もう会えないんでしょ」
「会えるよ。麻奈がちゃんと生きて、いつか寿命がきたら」
「そんなの、あとどんだけ生きたらいいのよ」
「分からない。俺は死神じゃないからね」
 ふいに髪にふわりとした感触がふれてきて、麻奈は呼吸を止めた。
 朔の手が、麻奈の髪にふれている。確かにふれられている感触がある。そっと、繰り返し撫でてくれる感触。
 それがあまりに優しくて、麻奈は大きく息を吸い込んだ。
 しばらくそうしていて、やっと涙が止まってから目を開けると、すぐそこに自分を覗き込んでいる朔の顔があった。
 思わず麻奈も彼に手を伸ばしたが、麻奈の手は朔にふれることができず、その身体をすり抜けてしまった。
「……そっちからだけとか、ずるい」
「ごめん」
 頭から掌の感触が消えて、朔の手がすいと離れる。
 これで朔が消えたら、本当にもう会えないんだ。
 思ったらまばたきすることさえ惜しくて、麻奈は真っ直ぐ朔の顔を見上げた。
 迷って躊躇った末に、やっと小声で言った。
「ね……消えるまで、もう少し近くにいて。……手、握ってて。駄目?」
 こちらからは、朔にふれることもできない。
 本当は恋人みたいに抱き締めてほしいくらいだったけれど、これだけ言うのでも顔が真っ赤になって、声が震えてしまった。
 それがわかったのだろうか。朔が少し移動する気配があって、ふわりと片腕で軽く抱き込まれた。もう片方の手が、クッションを握り締めていた麻奈の指をほどいて、やわらかく握ってくる。
 普通に生身にふれられるのとは、やはり感触が違っていた。ふんわりとどこか頼りなくて、でもそれを補うように優しくて。
「やっぱりこの子は幽霊なんだなぁ」と思いながら、麻奈は目を瞑って、彼に寄りかかった。
 こうしていると、とても安心する。これがもう最後なら、少しくらい甘えてもいいよね。切なさと共に、そう思った。

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