風が吹き抜ける。
雲間から差す月光をその身に受けて、ただ神楽は、風に吹かれている。ひとけのない丘の上に、ひっそりと、その身を晒している。
風が吹き、神楽の纏う豪奢な金襴の唐織の裾をすくう。短い、絹糸のように柔らかな髪を、肩の上で躍らせる。
ゆっくりと流れてゆく雲に、白銀の月が覆われ、またすぐに姿を現す。
ウォルルーーン……
何処からか、物悲しいような獣の遠吠えが、風に乗って夜の静寂に木霊する。
「ただ何事もかごとも、夢まぼろしや、水の泡、笹の葉にをく露……」
謡うように呟いたそのひとの瞳が、遥かな夜の地平へと向けられたそのきららかな瞳が、何を見つめているのか。それは、いつもと同じように分からない。
「菖蒲。あなたは、この歌がお嫌いですか。あなたはこの世のまことと云うものを信じているのですか」
気配を消して、神楽をやや離れたところから見つめていた菖蒲は、不意に声を投げられてどきりとした。
神楽はいつものように、淡く笑み含んだまま、菖蒲を振り返る。
「あなたは心根の真っ直ぐな方ですからね。菖蒲」
いささか気まずそうに立っている菖蒲へ、神楽は少し皮肉気に云った。
「あ、あたしはっ……」
かっとなりかけて、菖蒲はなんとかそれを押しとどめる。
菖蒲は月下に佇む黒髪の麗人のもとへ、神楽よりもはるかに皮肉も露わな笑みを作りながら、歩み寄った。
「何を寝惚けてるんだ。心根が真っ直ぐで、こんな稼業が勤まるものか。さあ、そんな戯言はどうだっていい。今夜も仕事があるんだよ。いつまでそこで油を売ってるつもりなのさ」
「分かっていますよ」
神楽は菖蒲を見返しながら、はんなりと舞い散る花のように微笑んだ。
「では……参りましょうか」
りーーーん……
怖いほどに澄んだ音色で、鈴が鳴った。一度だけ。
「ひ……!」
闇の中。
獣達に引き裂かれ、血みどろになった男は、それでも必死の力でいざって、冷たい壁に背中を貼り付かせる。
「やめ、やめてくれ……来るな……こ、殺さないでくれッ……」
ひきつった声で哀願する、その前方に立つ、亡霊のような影。
虚ろな白い能面を闇に浮かび上がらせ、煌びやかな唐織を纏ったもの。
清らかな娘を象った面の下に、素顔は秘められたまま。その白い手が握る黄金の太刀が一閃し、血肉を通わせた身体から首を断つ。
びちゃりと朱濡れた手が、よどみなく白銀の刃を鞘に収めた。
女が誘い、男が殺す。
何度繰り返してきたか分からない手口。
巡る夜に月は満ち欠けを繰り返す。
いつも同じことを、繰り返す。
何も変わらない。
何も変わらないはずだった。
その夜、紅い色に濡れたのは、獲物ではなく、美しい狩人の姿だった。