「月の鬼」陸ノ段

 その夜は月も星もなく、かわりに、土砂降りの雨が降っていた。
 大きな木の根元に身を凭れさせていても、雨粒を避けることはできない。
 ぐったりと瞼を閉じた神楽の、白すぎる頬を、狼達が心配そうに、ぺろりぺろりと舌で舐める。
 瞼が僅かに開き、その頬を舐めていた狼を、その黒い瞳が見た。
 霞むようにその瞳が微笑み、けだるげに細い腕が持ち上がって、狼の濡れそぼった頭に乗る。
 その身を包んだ白い小袖も、金襴の唐織装束も、すべてが鮮やかな真紅に染められている。
 腰に佩いたままの黄金の太刀にも、紅い色が滴り、絡み付いている。
 血の気を失った唇が、僅かに動いた。
「もういい……お行き」
 脇に座った狼は、灰色の瞳を、真っ直ぐに神楽に向けたままでいる。
 他の狼達も、一向に去ろうとはしない。
 神楽はもう一度微笑み、手を下ろすと、苦しげに細く息を吐いて眼を閉じた。
 が、すぐに、また開く。
「神楽……」
 滝のような雨の中、構わず駆けてきた菖蒲が、打ちのめされたような、泣き出しそうな顔で、力なく木の幹に凭れた神楽を見下ろした。
「なんで……」
 崩れるように、濡れ鼠のまま、菖蒲はへたり込んで神楽に縋りつく。
「なんで……! どうして、どうして、刀を抜かなかったんだよ!? 何を考えてたんだよ!」
 悲鳴に近い、泣き叫ぶような声。菖蒲の頬に伝う雫が、雨の雫なのか、涙なのか、激しい雨にそれすらも分からない。

 菖蒲はその眼で、はっきりと見ていた。
 いつもと同じ手筈。失敗などあろうはずもない、刺客としての、暗殺者としての段取り。
 それを、何を考えていたのか。
 いつものように現れた神楽は、素顔を秘めるための白い能面を、かけていなかった。
 腰に佩いた黄金の太刀に、手をかける素振りすら見せなかった。
 その瞬間の神楽を、菖蒲は奇妙なほどに、瞼に焼き付けていた。
 連れた狼達をじっと控えさせたまま、振り下ろされる刃に、その美しい瞳を、閉じようともしなかった神楽を。
 かわそうと動くこともなく、まるで自ら斬られることを望んでいたかのような、その瞬間を。

 神楽を傷つけた、暗殺の対象であった男は、瞬間に逆上した菖蒲の小柄によって、喉を掻き切られた。
 神楽は雨と闇の中に姿を消し、菖蒲は一人、宿に残され。
 死に物狂いで雨の中を駆け、返り血すらも洗い流されてしまうほどに駆け、そうして。
 やっと、血塗れの神楽を、菖蒲は見つけた。

「神楽……」
 神楽自身の血に染まった金襴の衣の袖を握り締めて、菖蒲は問う。
「そんなに……殺すよりも、殺された方が、ましだったの……?」
「分かりません」
 蝋のような顔色でありながら、菖蒲が驚いたほど抑揚のしっかりとした声音で、神楽は返した。
「分からない?」
「云ったでしょう。この世はすべて夢まぼろしだと」
 神楽のかたちの良い唇が、仄かに笑み含む。傷が痛んだのか、僅かに眉をしかめたが、神楽はその微笑を崩しはしなかった。
「……聴こえる聲が、夢か現か。見えるものがまことか幻か。生きているということも、死ぬということも……ここにいる私は、何なのか……分からなくなってしまったんです」
「そんな……だからって。どうして」
「さあ。こうすれば分かるかもしれないと、思ったのかもしれません……」
 自分のことであるのに、まるで他人事のように言うと、神楽はすうと白い瞼を閉じた。その死人じみた青白い貌が、こらえ切れないように歪んだ。
「……すみませんが、菖蒲。……苦しいのです。誰か、呼んで来ていただけませんか」
「あ……」
 そう云われて、やっと菖蒲は、一刻も早くそうすべきであったことに気が付いた。神楽の受けた傷が深く大きなものであったことは、その眼で見ていた。土砂降りの雨でかなり洗い流されてはいるが、相当な量の血も、流れている筈だった。
 離れたくはない。今、神楽を独りにしたくはない。だがこんな場所で、菖蒲の手だけで、どれほどの手当てが出来るとも思えない。
「う、うん……そうだったね」
 菖蒲は、よろけそうになりながら膝を上げた。振り切るように、雨に濡れて額や頬に貼り付いた黒髪を払う。
「待っていておくれね、すぐ里から皆を呼んで来るから。動くんじゃないよ。いいね、神楽」
 神楽は力なく幹に凭れたまま、淡く、淡く、その美しい瞳を微笑ませた。
「ええ……菖蒲」
 菖蒲はそれを見届け、心なしか安堵して、すぐに背を返す。
 滝のように降りしきる雨の中、走り出すと、振り向いても神楽の姿はすぐにかすみ、見えなくなる。
 雨の音だけが、支配する。


 そうして、さほども置かず、里の仲間達を連れて戻ってみると。
 神楽のいた大きな木の根元には、神楽の姿も、群れていた狼達の姿も、なくなっていた。雨に洗われてゆく紅い血の跡だけが、夢ではなかったことを物語るように、かすかに散っていた。
 地面についた血の跡は、激しい雨に流されて、後を辿る手がかりにはならない。
 皆が、抜け忍だ、と色めき立つ中で。
 手に手に得物を取り、篠突く雨をかいくぐって、辺りへ散ってゆく中で。
 唯ひとり、菖蒲はその場に、立ち尽くしていた。
 確かに神楽がそこにいた跡を、次第に洗い流されてゆく血の跡を凝視しながら。

 

 抜け忍となった者は、いつの世であれ、生き残るためしがほとんどない。それほど執拗に放たれた追跡の網にも、とうとう神楽は掛からなかった。
 あれほどの傷で、忍ものの追っ手を振り切るなど、かなおうはずもないと云うのに。
 神楽は誰の手にも、掴み切れなかった。
 するりとすり抜け、ひらひらと舞ってゆく、紅い蝶のように。

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