優しい月-Missing link- (6) -完結-

「朔ってさぁ……何歳?」
 なんとなく、麻奈は切り出す。
 本当はもうこの世に存在しない少年。五年も前に、彼を知る全員の前から、突然姿を消してしまった少年。
 彼に何があったのだろう。
 その問いかけに、朔は小さく小首を傾げた。幽霊なのに年齢を聞かれるのも、不思議な話なのかもしれない。 
「死んだときの歳、っていうなら、十七かな」
「そっか。あたしより、ひとつ上なんだ」
 十七歳。
 彼が行方不明になったのは、確か高校二年の初夏、当時十六歳と書かれていた。
 それから十七歳になるまでの、空白の一年間に何があったのだろう。
 ふとあの、朔が綺麗にハイジャンプのバーを跳び越えている瞬間をとらえた写真を思い出した。
「朔」の記録は、すべてあの十六歳の時点で、未来をもぎ取られるように絶たれている。自分とさほど変わらない年齢で。きっとまだまだやりたいこともたくさんあったはずのところで。
「……ね、朔。君に何があったのって、聞いたら話してくれる?」
 遠藤朔が行方不明になった当時、親の政争に巻き込まれただの営利目的の誘拐だのと、様々な憶測が乱れ飛んでいた。結局失踪事件は迷宮入りで、今現在に至るまでその消息は不明のままだ。
 麻奈が見上げると、朔は黒い瞳をまたたいた。それからいつものように、やわらかく微笑む。
「それは、ちょっと話せないかな」
「……そっかぁ」
 拒まれれば、無理に聞き出す気にもなれなかった。なぜならそれは、彼が「死」に至るまでの話でもあるからだ。
 どこかで彼が迎えた死が自殺ではなかったこと、つまり「望まぬ最期」を迎えたことだけは間違いがない。なぜなら「自殺したらあの世にいけないよ」と繰り返しているのは、他ならぬ彼なのだから。
 そんなことを頭の隅で考えながら、そこから先は、麻奈は朔と、いつものようなたわいもない話ばかりをしていた。
 もう最後だと思っても、特別な話題というようなものがあるわけでも、浮かぶわけでもなかった。ただ、この時間がいつまでも終わらなければいいのに、と思った。
 そうする間にも確実に時間はすぎて、いつものように、自分が消える兆候を感じた朔が、それを麻奈に知らせた。
 もう本当に最後なんだ。
 そう思ったら、麻奈は思わず、朔の顔を真っ直ぐに見上げて言っていた。
「ね、朔。お説教してよ、あたしに」
 朔は本当は、心の中で思っていることがたくさんあるだろうに、何一つそれを麻奈にぶつけない。
 何があったにせよ、彼は生きたかっただろう。目の前で命を投げ出そうとした麻奈に、本当は思うところがいくらでもあるだろう。
 だからこそあの夜、彼は麻奈を止めたのだ。こうやって、本当はいけないことのようなのに、ずっと麻奈に付き合ってくれたのだ──麻奈の気持ちが死から遠ざかるように。
「あぁこりゃ死ねないわって、あたしが思うようなことをさ。言ってよ、朔」
 朔がそれを言ってくれたなら頑張れる。朔が死ぬなと言うのなら生きられる。
 朔は少し驚いたような顔をしたが、それから静かに微笑んだ。麻奈が大好きな、思わず呼吸も忘れるほど綺麗な表情だった。
 麻奈の瞳を覗き込むようにしながら、ゆっくりと一言ずつ、区切るように朔が言った。
「俺の分まで生きろよ、麻奈」
 麻奈は何度も頷いた。
「……頑張る」
「うん。麻奈なら大丈夫。頭いいし、可愛いしさ。キツイかもしれないけど、ちゃんとこっちから見てるから。一人だなんて思うなよ」
 言った朔の姿が薄れて、輪郭がぼんやりとした光に霞む。もう何度も見た、彼が消えるその兆し。
 あ、と、思わず麻奈は声を上げて手を伸ばしてしまった。今までもそうだったように、指は空を掻いた。
 そんな麻奈を見て、朔がついと麻奈に身を寄せる。彼の唇が、麻奈の唇にごく軽くふれた。
 その優しい感触に、麻奈が大きく目をまばたいたときには、朔の姿はふわりと光にとけてしまっていた。
 夢かと思うほどあっけなく、その光も数度のまばたきのうちに消えてしまう。
 呆然として、気がついたら麻奈は部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
 ふと思い出して、自分の唇にふれる。不意打ちのようだった、麻奈にとっては生まれて初めての、軽いキスの感触を。
「……ユーレイなのに、こんなのしてくれてんじゃないわよ」
 ──よりによって、これがファーストキスだなんて。
 憎まれ口を叩いたら、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。
 麻奈は泣きながら、すぐ傍らにあったベッドにもぐり込んだ。そして気が済むまで泣いた。
 泣いて泣いて泣き疲れて、そのまま眠ってしまうまで。

        *

 明日から三学期、という日。
 麻奈はもう一度学校に忍び込んで、夜になってから屋上に上がった。
 あの夜と同じように空には星が散って、銀色の欠けた月が浮かんでいる。まるでナイフのように細い細い月は、明日には新月を迎えるらしかった。
 ──月は一度夜空から消えても、また生まれ変わるように満ち始める。
 しばらく夜空を眺めていた麻奈は、屋上の鍵をぎゅっと握り締めて、校舎の中に続く階段に足を向けた。


(了)

ブックマークに追加