「やめた方がいいよ」
そんな声がいきなり、まったく予想もしなかった方向から聞こえてきたとき、麻奈は意表を突かれすぎてろくに反応もできなかった。
秋から冬へと、季節が移ろいつつある夜。半月より少しふっくらした感じの月は綺麗だが、がらんとした屋上を吹き抜ける風は、制服のブレザーを着ていても身震いするほど冷たい。
胸元あたりまでの冷たい鉄柵に、前向きに凭れかかるようにして目を瞑っていた麻奈は、ありえない方向からしたその声に、ゆっくりと目線を上げた。
四階建ての校舎の屋上から見下ろす夜景を背景に、白っぽい姿が、ぽっかりと浮いていた。そう、どう見ても「浮いて」いた。自分とそう年頃も変わらないのではないか、というくらいの少年が一人、何食わぬ顔で。
「……は?」
あまりにもありえない光景に、麻奈はしばらく馬鹿のように口を開けてぽかんとした。
月と星の明かりを浴びてぽっかりと宙に浮いた少年は、こんな秋の夜に見るには寒々しいような、黒いズボンに長袖の白いシャツ一枚だけという格好をしている。
まじまじとその姿を見て、麻奈は一瞬、男の子だよね? と目を凝らしてしまった。
身長もけっこう高いし、胸元はぺたんこだし、肩幅もあるし。
にも関わらず、なぜそんなことを思ったのかというと、立ち姿や顔立ちも含めて、なんというのかやたらに「綺麗」な印象だったからだ。
いろいろと何かもうツッコミどころ満載なのだが、何より目を奪われたのは、その姿が半透明であることだった。向こう側の夜景がうっすらと透けていて、そして蛍光塗料でも仕込んでいるように、ぼんやりと光っている。
何、この子。
麻奈はしばらく数メートル前方に浮いた少年を見ていたが、突然我に返った。
浮いてて半透明で、なんか光ってる。って、それはどう考えても「人間」ではないではないか。
「ひゃっ……あああぁっ!?」
跳び上がるようにして後ずさり、足がもつれて尻餅をついた。年頃の少女が上げるには少々はしたない声だったが、この非現実的極まりない状況下では致し方なし、というものだった。
身体の下に、ひんやりとしたコンクリートの感触。冷たい夜風が膝上丈のスカートの裾を持ち上げて、寒かったり冷たかったり恥らう意識が駆け巡ったりで、麻奈はあわあわとスカートを押さえた。
一方で、相変わらず何食わぬ顔をしている少年が、そんな麻奈を見てふわりと動いた。空中に浮いたまま音もなく鉄柵を越えてくると、腰が抜けて動けない麻奈のすぐ横に爪先を降ろす。
「やめた方がいいからね?」
半透明の少年が、もう一度繰り返した。落ち着いて耳に優しい、少しばかりけだるげな声。綺麗な黒髪と、黒い瞳。
少年に見下ろされながら、麻奈は混乱気味に口を開いた。
「や……やめた方が、って、何が……?」
いや普通に話してる場合じゃないから。と自分で自分に突っ込んだが、あまりにもわけが分からなくて、頭がまともに働かない。
「飛び降りちゃおうかなぁ、とか考えてたでしょ? 今」
少年が小さく首を傾げるようにして、そんなことを言った。
ますます目を丸くした麻奈の横に、少年は視線の高さを合わせるように、ひょいとしゃがみ込んできた。
「自殺はあの世にちゃんといけなくなるから駄目なんだって。知り合いの死神が言ってたよ」
「し……しにがみ……?」
「それに、見た目もひどいことになっちゃうし。この高さから飛び降りても、必ず死ねるとも限らないしさ。やめとこ?」
あの世とか死神とかひどい見た目とか死ねるとも限らない、とか。そんなことをさらりと言われて、麻奈はますますパニックを起こしそうになる。
ただ口をぱくぱくさせていたら、ひゅうっと冷たい風が吹いて、麻奈は派手にくしゃみをした。
身震いすると、それを見た少年が軽く笑った。
「ここ寒いし、風邪ひいちゃうからさ。とりあえず家、帰ろ?」
相変わらず、世間話をしているような調子。
なんだろうこの子? と、麻奈は混乱しながらも考え込む。
もういろいろとおかしいし、明らかにこの子は「この世のモノ」ではない、のだが。
にも関わらず、恐いとか不気味だとかいう感じがまったくしない。
それどころか、間近で見るとますます綺麗だ。姿が、というのもあるが、それ以上に雰囲気が。
それに声が優しい。声だけでなく、表情も。なんだかすごくやわらかい……。
呆然としたままでいると、ふいに少年が立ち上がった。
「それじゃ、俺も帰るから。ちゃんと真っ直ぐ帰るんだよ。気を付けてね」
「あっ……」
遠ざかりかけた少年に、思わず麻奈は声を上げていた。反射的に伸びた手は半透明の姿をすり抜けて空を切ったが、うん? と少年が振り返った。
思わず手を伸ばしてしまった自分に驚いた。まだ混乱も残っている。
だがぼんやりしていたらこの子は行ってしまう、と思ったら、考えるよりも先に言葉が出ていた。
「えっと……その、夜道恐いし。家まで送って、とかって……駄目?」
自分でも言いながら、いや無茶だなと思った。こんな時間までふらふらしていて夜道恐いもないし、そもそも明らかにこの世のモノではない相手をつかまえて何を言っているのか。
言われた方も予想外だったのだろう。きょとんとした顔で、少年が麻奈を見返した。