「月の鬼」弐ノ段

 冴え冴えとした月光の下、そのひとは、その貌を覆っていた白い能面を外した。
 神々でさえ息を飲み、称賛せずにおれぬだろう、玲瓏と澄んだ美貌が、月明かりに青白く照らされる。
 その美しさは、生身あるもの、生あるもののみが持ち得る、生々しい、美しさ。
 確実に散ることが約束されたがゆえの、哀しいまでの、刹那的な美しさだ。
 その周りから今は美しい獣達は去り、黄金の太刀は、いつものようにその腰に下げられている。双の金の鈴も、その柄の先に、ただの飾り鈴となって下がっているだけだ。
 そのひとのたおやかな指が、傍らに揺れていた花に伸び、ふれた。夜と月の下、百華の王と呼ばれる大輪の花弁も今は閉ざされている蕾に。
「存外に牡丹は、不吉なのだそうですよ」
 その唇から落ちた涼やかで耳障りの良い声音に、後からずっと付き従ってきていた女が、首を傾げた。
「不吉?」
「こう、ぽとりと。花が落ちるので。首のようにね」
 花の蕾を、しなやかな指で弄びながら、そのひとは淡く笑う。その傍らに歩を運んだ女が、月明かりのせいなのか、どことはなく寂しげな瞳をした。
「……そうしていつも笑ってばかり。本当はもう嫌なんじゃないの、神楽かぐら?」
 神楽。と、そう呼びかけられたそのひとは、夜の闇を封じ込めたぬばたまの瞳で、女を見返す。
「何がです?」
「誰かに利用されるのも、これ以上人を殺すのもさ」
 女は、透けるような瞳で、神楽と呼んだ黒髪の麗人を見上げる。
 神楽はそんな女をしばし見つめ、くすり、と紅い唇を綻ばせた。
 見るもあでやかに、ふわり、と、豪奢な金襴の衣の裾を返す。
「こんな歌があるのを御存知ですか。菖蒲あやめ
 透明な声が、謡うように、独り言のように、紅い唇から流れ出る。
「梅花は雨に、柳絮は風に、世はただ嘘にもまるる……人は嘘にて暮らす世に、何ぞ燕子が実相を談じがほなる。ただ何事もかごとも、夢まぼろしや、水の泡、笹の葉にをく露のまに、あじきなの世や……」
 軽やかに、長い、艶やかに豊かな黒髪を、衣の裾を、風になびかせ。神楽は、可笑しそうに、また鈴の音のように、笑う。
「閑吟集ですよ」
 菖蒲と呼ばれた女は、何も返さずにただ神楽を見つめている。神楽は菖蒲の様子など意にも介さず、優雅なまでの様子で、続ける。
「私はね、菖蒲。この歌が好きですよ。この世にまことなどありはしない。すべて水の泡や露のようなもの……何事も夢まぼろし。それで良いではありませんか」
 ふわふわと、まるで風の中に舞い戯れる、悪戯な妖精のような、そのひとの気配。
 不思議な、半透明ですらあるような、何かしら人ならぬ気配。
 そのひとの蠱惑に満ちた艶やかな瞳が、人の悪い微笑を浮かべて、黙り込んだきりの菖蒲を振り返った。
「ほら。そこでまた、あなたは黙り込む。あなたとの会話が成り立つことなど、滅多にない。なぜいつも黙ってしまうのですか? それほどにお嫌いですか、私のことが」
「……人のせいにしないで。あんたがいつもそうやって、はぐらかすからだよ」
 菖蒲の美しい黒瞳が、神楽の妖しいほどの美貌を、きっとしたように睨み据えた。
 菖蒲は踵を返すと、歩き始めた。
 その背後で、神楽は、ふわりと何処かへ消えてしまう幻のような気配を滲ませたまま、月の光を浴びながら唇を動かす。
「秋風にたなびく雲のたえ間より、もれいづる月のかげのさやけき……ねぇ、菖蒲。どうして昔から、人は好んで、月の歌ばかりを作ってきたのでしょうね。空にかかるのは、何も月だけではあるまいに」
 振り返るまい、と固く思っていた菖蒲だったが、気が付いたら、もう神楽を振り返っていた。
 青い月光の下、神楽は、透けるほどにひどく儚く、幻のように佇んでいる。
 月を見上げている、その美しい双眸も、本当に月を捉えているのかどうか。一見あまりにも無防備な、子供のような横顔で、神楽は月の青く冷たい光を、全身に浴びていた。
 その、幻想じみた光景を見ていると、そのひとに月の光ほど似合うものはない、と、人は誰しも思ってしまう。
 けれど、神楽を長いこと見てきた菖蒲には、そうではないのだということが分かっていた。
 神楽は、昔から、とにかくどこかふわふわとした、幻のような、掴めそうで掴み切れぬ存在だった。
 月の光だけではない。
 神楽は、そこにあるものすべてに、いつも、奇妙なまでにすんなりと融け込んでしまう。
 月光が差していれば、その下に。
 紅い炎が揺れていれば、そのものに。
 白銀の雪が舞っていれば、その中に。
 そこにいる、というだけで、そこの中に、まったくの違和感もなく、いつのまにか融け込んでしまう。
 そういったひとだから、会う人ごとに、神楽に対する印象は大きく異なる。
 けれど、不思議なほどに、誰もがたった一つだけ、同じことを口にする。
 蝶に似ている。と。
 ひらひらとした、妖しく美しい夢幻のようなところが、蝶を思わせると。
 いつも、何を見、何を考えているのか分からない、まるで「人」ではないようなひと。
 澄みすぎた湧き水のように、透明な気配を纏ったひと。
 愚かしいことなのだが、菖蒲は、神楽は本当は「人」ではないのではないかと、時々思ってしまう。
 軽やかに、何ものにも捉われずにするりとすり抜け、ひらひらと舞い遊ぶ、胡蝶の化身なのではないかと、思ってしまう。
 それほどに、そのひとは、「人」の気配を纏っていない。
 普通の人々と、存在している世界そのものが違う、胡蝶の妖精であるかのように、誰にも掴み切ることができない。

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