そこは、街の中ではかなり高級な部類に入る、宿の一室。
揺れる燭台の明かりに照らし出されたそこでは、一組の男女が、衣を乱れさせて、互いをまさぐり合っていた。
ひとりは、透けるような肌の、歳若く美しい女。
ひとりは、なかなかに男前の、恰幅のいい、三十代半ば程の男。
女は、大きくはだけた着物の襟を、わざとらしく焦らすように、掻き合せて男を見る。
場慣れした、誘うような、からかうような、色香に満ちた瞳。
女の滝のような黒髪と、白すぎる肌の対比は、まるで妖のようですらあり。女は、人と云うよりも雪女のようだった。
女は男の唇に、その真白い細い指を、じゃれるように押し当てる。動物に、待て、をするようなその仕種に、男がむっとする。
男が何かを云い、女も赤い唇から何かを云い返し、そうしながらも、女の妖艶な眼は色めいて男を見つめている。その白すぎる手は、そろそろと、誘いかけるように動いている。
美しく、妖魔じみた色香にあふれ、身体も申し分なく成熟した女に、ついに男は耐え切れなくなり、乱暴に掴みかかって着物を剥いだ。
白い、小山のような胸の豊かなふくらみも露わに、男の腕に押し倒された女の唇から、嬌声のような笑い声が上がる。
男が女を抱き込み、その白い肌へ、舌と唇を這わせ始めた、そのとき。
がたん。という大きな音が、几帳に隔てられたその向こうから、した。
まだ完全には、淫らな波に呑み込まれていなかった男は、はっとして、女を突き放す。すぐ傍らにあった太刀へ手を伸ばし、柄に手をかけたその動作は、間違いなく鍛え抜かれた武人のものだった。
だが。
大きな物音と共に外れた格子から、強く吹き込んだ風と共に飛び込んできたものに、男は、仰天を通り越して唖然とした。
風と同化し、疾風のようにそこに飛び込んできたものたちは、素早く動き、男を取り囲む。そのとき偶然かそうではないのか、燭台が倒されて、ふっと室内から灯が消えた。
抜いた太刀を、半信半疑の体で、男は膝をついたまま構える。
灯の失せた闇の中に、男を囲むように光る、幾つもの赤い光。低く唸り、ぐるぐると喉を鳴らす、獣の声。
壊れた格子から差し込んだ月明かりに、そこにいる四つ足の獣達の姿がくっきりと浮かび上がり、まさかと思っていた男は、ひっと喉を引きつらせた。
狼。
美しい、残酷な獣。
男を威嚇するように、低く唸りながら取り囲む獣達は、紛れもない、それ。
混乱と恐慌に見舞われた男は、雪女のような女がいつの間にか傍から消えていることにも、気が付かない。
差し込む月明かりを背に、几帳の脇に幻のように現れいでた人影に、さらに、男は眼を剥く。
闇に浮く、白い能面。
「夜分に、失礼」
ややくぐもった、涼やかな男の声が、この異様な状況にそぐわぬ呑気なほどの言葉を、紡いだ。
人の言葉を聞いたことで、男ははっと事態を悟り、先手を打つようにその人影に向けて太刀を振りかぶった。が、男が身じろぐと同時に、狼達もまた、一斉に動いていた。
数頭の狼に、至近距離から一斉に飛び掛られては、如何に腕のたつ武芸者でも、ひとたまりもない。
悲痛な叫び声が上がり、白い能面は、致命傷とならぬ程度に獣達に引き裂かれてゆく男を、身じろぐこともなく、ただ見下ろしている。
すう、と、その白い手が闇に浮き。
りーーーん……
怖ろしいほどに澄み渡る鈴の音に、ぴたりと、狼達の動きが止まる。
血みどろになって畳に這いつくばった男の前へ、能面の人影は、音も無く歩み出る。
「その御首、頂戴致します」
白い、刀など握ったこともないような手が、黄金の太刀を、持ち上げ。
すうと鞘が引かれ、白銀の刀身が現れるのを、男は、凍り付き瞠目した顔で、見上げていた。
狼を従え、黄金の太刀を持ち、能面と煌びやかな唐織を纏って、顕れた魔性。紅い蝶にも似た、目にした者を魂から蠱惑するもの。
その、美しくも妖しい、絶対的な死と恐怖をもたらす、禍々しい存在に。
刃が振り下ろされるのが分かっていながらも、男は、為すすべを持たなかった。
銀の軌跡が軽やかに一閃し、血の尾を引いて、首が宙を飛んだ。
どさりと鈍い音を立てて落ちた、眼を見開いたままの生首に、能面の魔性は、僅かな一瞥をくれる。
すぐに顔を逸らすと、太刀を一振りして刃に絡んだ血を払い落とし、黄金の鞘に収める。
能面の魔性が壊れた格子へと向かうと、狼達も、血に染まった死体には眼もくれず、後について、音も無くそこから引き上げてゆく。
一番最後に、きちんと居住まいを正した、あの雪女の如き女が、それに続き、姿を消した。
あとには、獣の爪と牙とに引き裂かれ、首を飛ばされた、無惨な男の屍が、部屋の中をおびただしい血の色に染め、横たわっているだけだった。