ひゅううううう
ひゅおおおおおう
甲高い女の悲鳴のような風が、しっとりとした闇に満ちた夜気を切り裂いてゆく。
ひゅおおおおううう……
風は生暖かく、さやさやと草を揺らし、ざわざわと夜に不気味に佇む木々の梢を揺らす。
打ち沈むように暗い池の水が、さざ波を表面に這わせ、ゆらゆらと揺れる。
りーーー……ん
纏いつくような、奇妙な生命を得たかのような生暖かい風の音に混じり、かすかな、震えるような鈴の音が流れる。
ひゅおおおおおう
ひゅううううう……
りーーー……ん
ひゅおおおおううぅ……
りーーー……ん
さくり。水気を充分に吸った、伸び放題の青い草を、何者かのたおやかな足が踏みしだいた。
りーーー……ん
りーーー……ん
水の中で鳴らしているかのような、ひどく澄んだ、ひどく響く鈴の音は、その人影が腰に佩いた細い太刀の、柄の先に下がった双つの金の鈴から、零れている。
その人影が歩むたびに、生暖かいねっとりとした風が吹くたびに、金の鈴は揺れ、美しい、けれど何故ともなく、ぞわりと肌が粟立つほどに禍々しい、澄み切った音色を鳴らす。
りーーー……ん
風が吹き。
その人影の、白い、雪のように白い貌が、黒い、黒檀のように黒い髪をなぶられ、夜の闇の中に露わになる。
ぬばたまのように煌く、艶やかな、黒い瞳。
紅を引いたように、濡れたように艶めいた、紅い唇。
白すぎる、落ちかかる闇の下でさえ、はっとするほどに浮かび上がる肌は、極上の練り絹よりも尚きめ細かい。
白く細いうなじを、いささかけだるいように、やや乱れて覆った緋色の装束は、闇の中にあってさえ、燦然と輝くようだ。
それは、緋色の地に、黄金と彩り鮮やかな綾糸で刺繍を施した、まばゆいばかりに豪奢な唐織の衣。
やや着崩されたその裾を、風が掬い上げ、ゆらゆらとなびかせる。
濡れたような、しっとりと見事な艶を帯びた黒髪は、長い。腰までも届くほどかというそれは、結われていないせいで、吹く風に好き放題に嬲られ、弄ばれている。
その、艶やかな黒髪に包まれた白い貌は。
見た者が眼を疑うほど。
数瞬立ち尽くし、惚と見とれずにはいられぬほど。
美しかった。
身体つきも、極めて華奢で、なよやかだ。一見、女にしか見えぬ。しかし、僅かに女と云うには広い肩幅と、女としては高すぎるすらりとした長身のため、かろうじで、そうではないと判断できる。
だとすれば、男か。
女と見まごうほどに美しい、美しすぎる男か。
りーーー……ん
紅い唇の両端が、くいと、嫣然と吊り上がる。
そのひとは、女ほどにも細い腰から、そこに帯びた細身の太刀を、鞘ごと引き抜く。
輝くようにまばゆい、黄金の、太刀。
その所作に、柄から下がった双の金の鈴が、しゃらんと乱れた音を鳴らす。
そのひとの、女のもののように白い、細い指が、柄に模様のひとつとして融け込んでしまうほど見事に絡められた、金の鈴のついた赤い紐をほどき、その白い手に絡める。
闇と風の中、そのひとは、なよやかな細いその手を、すいと持ち上げる。
しゃらん!
ふたつ並んで下がった鈴が、かすかな手の動きに、驚くほど大きく鳴る。
黒い髪を、白すぎる頬に、吹く風に貼り付かせ、そのひとは、さらに数度、鈴を鳴らす。
しゃらん!
まるで何かを招くかのように。
しゃらん!
まるで何かを焦がれ待つかのように。
しゃらん!
強い風に、天空を流れてゆく雲の動きも、流れるように速い。
ざわざわと、それ自体が命と意思を持っているかのごとく揺れる、木々と草の間に立ち尽くした、紅と黄金の装束を纏う麗人の周りに。
やがて。
ぽつりぽつりと、血のような、一対の小さな赤い光が、無数に滲むように現れ始める。
立ち込める闇の中に混ざる、生き物の、生々しい息遣いの気配。獰猛な、血に飢えた野生の気配。
黒髪の麗人の周囲を埋めるほどに、赤い光が現れた頃。
強い風に流された雲が夜空を走り、それまで重く厚い雲に隠されていた、白銀の月が姿を現す。
さあっと天空から降りそそいだ月光の下に、その姿を晒したものたちは。
荒々しく、獰猛な、美しい、獣。
しなやかな、どこかそこに立つ黒髪の麗人にも似通ったものを持つ、美しい獣。
狼。
長い黒髪を、風に嬲らせた麗人は、十数頭にも及ぶ狼の群れを従え、月光の下に佇んでいた。
しゃん!
短く、金の鈴が鳴る。
黒髪をなびかせた麗人は、妖艶なその美貌を、一瞬、眩しそうに天空にかかる白銀の月へ向ける。
月は走る雲に、すぐにその姿を再び隠し、辺りに、闇が降りる。
そのひとは、袖の中から、ひとつの白い能面を取り出すと、黄金の太刀を、すぐ脇にいた狼へと差し出す。
狼は、まるで主人に仕える忠実な下僕のように、くいと顎を持ち上げ、傷つけないよう、太刀を咥え込む。
黒髪の麗人は、白い小面を、白く美しいその貌の上に、そっとかけ、面紐を結ぶ。その白い手に、狼が、太刀を戻す。
そうして、そこに立っていたのは。
紅と黄金の装束に身を包み、白い面をかけ、手には黄金の太刀を持ち、背後には狼の群れを従えた、ひとりの魔性だった。
妖しく、美しく、どろりとした血を思わせるにも似た、蠱惑する紅い蝶にも似た、禍々しく危険な、魔性だった。
ひゅおおおおおうう
ひょおおおおおぉ……
しゃらん
風の音に、鈴の音が、混ざる。
天に掲げた白い手に、金の鈴の下がった紅の紐を絡めたそのひとは、まるでそれを通じて狼達と心を通わせているかのように、微妙な、鈴の鳴らし方をする。
しゃらしゃらしゃら……
しゃらん!
強く、鈴が鳴ると。
ぴくんと、狼達が、その尖った耳を立てた。
そのひとが、風のように、すべるように、闇の中を、走り出す。
実際、走っていると云うよりも、風の中を舞っているかのようにしか見えぬ。
そのひとに付き従い、狼の群れも、足音もなく、疾風の如く、疾く駆ける。
闇の中を、紅と黄金の豪奢な装束を翻し、長い黒髪をなびかせ、面に素顔を秘め、黄金の太刀を手に駆けるその姿は。
獰猛な美しい狼を従え、闇の中を風のように疾駆してゆくその姿は。
まさに、人ならぬもの。
人外の、妖しくも美しい、魔性の存在。
そう、もしも見ている者がいたなら、思わせるには足りすぎたもの。
紅と黄金と闇の魔性。
それは、夜の下を、美しい獣達を従え、疾く駆けてゆく。