ある四阿にて

「やっほ、月読つくよみー」
 霧雨が朧に視界を霞ませる中、石造りの古びた四阿あずまやで書物を開いていた月読は、不意の呼びかけに視線を持ち上げた。
 淡い翡翠色の瞳が辿った先。四阿のすぐ傍ら、ふわりとまるで降ってわいたように、鮮やかな夕陽を思わせる朱金色の装束を纏った少年が、姿をあらわした。
「おや、これは」
 月読は書物を石卓に伏せて、静かな物腰で立ち上がる。そうして立ち上がると、長い亜麻色の髪をゆるく背の半ばほどで結い、すらりと上背の高い容貌が、薄萌葱色の長衣によく映えて見えた。
「こんにちは、千熾せんし。お久し振りです」
 淡く微笑した月読に、千熾と呼ばれた朱金の装束の少年が、にっこりと笑い返した。
「おひさし。あ、いーのいーの。構わず座ってて」
 千熾は雨など気にもしていないように、月読の腰ほどの高さの四阿の囲いに、ひょいと腰掛ける。体重など存在していないような動きは、跳躍したというよりも宙を舞ったかのようだった。
「では、お言葉に甘えて失礼します」
 月読は千熾に向かって一礼し、もとのように石造りの椅子に腰を下ろした。
「月読はぁ、相変わらず読書三昧?」
 四阿の囲いに腰掛けた少年は、邪気のない様子で月読に話しかける。
 人里からは離れた山あい、土や岩の色、曇天と深い樹木の緑に囲まれた中にあって、その鮮やかな朱金の装束を纏った少年の姿は、ひどく目を引く。金糸による細かい刺繍の施された装束が、一見して豪奢なばかりではない。
 歳の頃は、十二か三か。金色を帯びた少年の髪は、腰を覆うほど長く流れ落ち、ふわりと空気を含んでいるようでありながら、一筋の乱れもない。子供らしく大きな瞳は、装束に似た朱金の色。いかにも気さくで明るい表情を湛えているが、それに似合わず、思わず瞬いて見直してしまうほどの高雅さを帯びていた。
「晴耕雨読、ではありませんが。特に何もやることがないときは、今はこれが楽しいですね」
 朱金の少年に視線を返しながら、物柔らかな表情によく似合う柔らかな声音で、月読が言った。
 月読の線の細い柔和な容貌は、女性かと見まごうほどだが、そうと言うには長い指にはまろやかさがなく、声音も低い。歳の頃は、二十台前半ばかりか。若々しい容貌だが、纏う空気は「老成」という表現が相応しいほど、奇妙に落ち着いていた。
「まぁあんたらが暇なのは、良いことと言えば良いこと、なのかなあ」
 膝に頬杖をついて言った千熾に、月読がゆるく首を傾けた。
「どうでしょう。陰陽の巡りが滞ることが、果たして吉であるのか凶であるのか」
「うーん。たまたまそーいう時期なんじゃないの? んな難しく考えなくてもいーと思うよ」
 あっけらかんと言う少年に、月読が思わずのように笑みこぼした。
「あなたがそう仰るのであれば、そうなのかもしれませんね」
「まーこれでも、陽氣の塊だからね。俺」
 やけに偉そうに、悪戯っぽく小さな胸を張ってみせる少年に、ますます月読は笑った。
「貴い鳳凰の雛が、そうふらふらと穢れた下界をうろつくものではありませんよ?」
「えー。だって上はタイクツだしさー、下界のがおもしろいんだもん。それに、こんな程度の陰氣で穢れたりしないってば、俺」
「それはそうでしょうけれど。上の方々は、気が気ではないでしょう」
「もー。月読せっきょーくさい。中身はすっかりオジイチャンだなぁ」
 ぷっと頬を膨らませた千熾に、月読が淡く明るい翡翠色の瞳をまばたき、それからいっそうおかしそうに吹き出した。
「それはもう。本当の年齢など、とうに忘れてしまいましたからね」
「もうちょっとさぁ、こう、若々しくならないとモテないよー? 月読は、せっかく見かけは整ってるんだからさー」
「人の子に好かれたとて、互いに困るだけでしょう」
「えー。俺が月読だったら、この世の春を謳歌するけどなぁ。俺はこの通り、変化へんげしたってやたら目立っちまうからさ。この金ぴかのだけでも隠せりゃ、ちょっとは地味になるんだけど」
 千熾が自分の金色の前髪を摘み、鮮やかな朱金の瞳を、くるりと不満気に動かした。
 月読は目元に笑みを含んだまま、声ばかりは生真面目に言った。
「腕の良い法士がシュを施した染料であれば、染めることも叶うのではないでしょうか?」
「あー、むりむり。こないだヨウ国一の道士ってのが、そんな感じの作ってくれたんだけどさぁ。染まるどころか、染料の方が金ぴかになっちまって。道士のおっちゃんも、これがまた商魂逞しくてさあ。その染料使って、守り札作り始めてやんの。『霊験あらたかなお守りでござい! 』とかって売り出して大盛況。どうなの、それ?」
「なかなか愉快な道士ではないですか。あながち詐欺とも言えませんし、そのまま棄てるのもはばかられたでしょうし。まず有効活用と言えるのでは」
「俺の夢の黒髪はぁ、どうなったんだーてのー」
「そもそも榮国一などと、その煽り自体があやしいのではないかと……」
「むむ。まー確かに、自称だったしな。あのおっちゃん」
 諮られたか、と唸っている千熾に、月読はくつくつと噛み殺すように笑った後、いくらか表情を真面目なものにした。
「下界で遊興されるのも結構ですが。くれぐれも、身の回りにはお気をつけ下さい。あなたに何かあれば、天界も下界も大変なことになりましょう」
「うーん。俺がどーなっても、案外誰も困らないと思うけどねぇ?」
 頬杖をついたまま言った千熾に、月読が翡翠の瞳を、険しいほどに真摯な表情に変えた。
「千熾。冗談でも、そのようなことを口にするものではありません」
「はぁい。ごめんなさい」
 少年は軽く、だが素直に首をすくめた。
「まったく。俺に説教するのなんか、あんたくらいだよ、月読。ほんっと、オジイチャンなんだから」
「私達の数少ない特権ですからね。いかなる天地の則にも縛られない、というのは」
 表情を和らげた月読に、千熾がまた首をすくめた。そしてふとしたように、きょろきょろとあたりを見回した。
「そういや、皓此こうしは?」
「下の街に行くと。静かなら静かで、どうにも落ち着かないようです」
「まーなぁ。あいつ、融通きかないっていうか、バカがつくほど生真面目だからなあ」
「そうですね。あれは、少し思いつめるたちですから……」
 言いかけた月読が、不意に立ち上がった。千熾に向かって身体を開くように立つと、優雅な長い左腕を前方に差し伸ばす。
 と、何もない空間が陽炎のように揺らぎ、瞬きの間に、月読の手の中に一張の大きな弓が現れた。
 白銀に煌くそれを、千熾に向かって月読が軽々とつがえる。と思った瞬間には、白銀の閃光が解き放たれていた。
 千熾の身ぎりぎりをかすめて閃光は飛び、そこにいた黒い何ものかを射抜いて、悲鳴すら上げさせずに散らし、消し飛ばした。
「大物は現れませんが、細かいものはきりがありませんね」
 月読が軽く息をついて腕を下ろしたとき、その手の中からは、白銀の弓は影も形もなく消え失せていた。
 その様子を眺めつつ、千熾が感心したように言った。
「それ、やっぱりキレイだなぁ」
「それ?」
「あんたの瓏月弓ろうげつきゅう。皓此の天雅刀てんがとうもキレイだけど、俺はそいつのが好きだ」
 言いながら千熾は、囲いの上に立ち上がった。大人の掌の大きさほども幅のない上に、まるで地面の上に立つように危なげもなく。
「んじゃ、俺ちょっと皓此のところに遊びにいってくる。どーせまた、難しい顔してるんだろうから」
「わかりました。お気をつけて」
 言った月読に、ちらりと千熾が目を投げた。
「それだけー?」
 月読が小さく笑い、腰を折って一礼した。
「皓此をよろしく頼みます。少しは、あれを笑わせてやって下さい」
「頼まれた」
 頷いて笑うと、千熾が囲いの上でくるりと身を翻した。そのままふわりと舞い上がり、朱金の炎がその姿を覆い隠すように渦を巻く。そう見えた、と思ったときには、煌く火の粉を残して、千熾の姿は空中に掻き消えていた。
 そこにいるだけで何かと騒がしい少年が消えてしまうと、途端にまた、音もなく降る霧雨が風景を洗う静寂が戻ってきた。
「……よっぽど暇なんでしょうかねぇ」
 灰色の空を眺めながら、あの朱金の少年は何をしに現れたのやら、と月読はしばし考えた。
 朱金を纏う少年の賑やかさと、その少年が会いに行くと言った、仏頂面の昔馴染みの顔を思い出す。堅苦しい昔馴染みのことだから、突然人里に現われた鳳凰の雛に、きっとさぞ血相を変えて慌てることだろう。少しくらい、強張った表情筋をやわらげるといい。
 巻き起こるであろうささやかな騒動を想像して、月読はもう一度、小さく笑みこぼす。
 そして何事もなかったように石の椅子に腰を下ろして、伏せておいた書物をゆっくりと開いた。


(了)

 

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